男は山を登っていた。
差し込む夕日に照らされて、額の汗が光った。
男は顔を上げて空を見上げる。
いつも通っている山道だというのに、ゼェハァと息が荒い。
踏みしめる道は狭く、岩肌の道は一歩踏み外せば転げ落ちる急斜面であった。
じきに日が沈む。急いで山を越えないと暗くなってしまう。
今日中にこの資材を運ばなければ、建築に間に合わなくなるだろう。
背負っていた木材の荷物を担ぎなおし、また下を向いて歩き始める。
その時だった。
ばっ、となにかの影が男の前に現れる。
「うわっ!」
驚いた男は思わず大きく後ろへと飛び退き、足は岩の淵を踏み外した。
「しまっ……」
ざざざっ。やってしまった。見るも見る間に男は急な斜面を転がり落ちていく。
「うわあぁあっ」
ズルズルと滑り落ちていく。
所々に生えた木にぶつかり捕まろうとするも虚しく転がり落ちていく。
もうだめか、と思った次の瞬間、突如大きな衝撃と共に落下が終わりを迎えた。
「あいたたた。まったく、いったいどうなっちまったんだ。」
男は体を起こしあたりを見回した。
どうやら硬い石の床にぶつかったようだ。
岩壁の間から人工物らしき瓦礫がせり出していて、どうやらそこに足をつけたようだった。
この場所は山道の上からは見えなかった場所だ。
打った背中は少し痛むものの奇跡的に大きな怪我はしていないようだった。
しかしどうしたものか。
随分ところげ落ちてしまったようだ。
まったくの絶壁ではないとはいえ、たった今ころがり落ちてきた急な勾配を登れる気がしなかった。
「ふん、おれの運もついに尽きたかな。」
男は膝をついて息をついた。
そう。どうせ事も成せず死ぬ運命だった。
それが早まっただけ。
それがどうにも足を離せなかった。
そして完全に日は沈んでしまった。
男は虚な目で空を眺める。
「ふふ、こんなところに来客とは珍しい。」
不意に背後から聞こえた声に驚き、男は再びあたりを見渡した。
そこには白いシャツを着た青年が座っていた。
人.......?こんなところに人がいるものだろうか?
しかし実際に白シャツの青年はそこにいた。
男はなんだ人かと息をつきながら落ち着き、首を振った。
「おいおい、またびっくりして落ちるところだったぞ。」
白いシャツの青年は微かに笑い尋ねた。
「君もここの景色を見に来たのかい?」
大工の男が首を振って否定する。
「いやいや、旦那。こんな危なっかしいところにそんなわけ無いだろう。おれは上で崖を踏み外しちまったのさ。」
そう言って男は上を仰いだ。
「そう……もういいんだ。ここでくたばってしまったって。」
白いシャツの男がその言葉に首を傾げる。
「ふむ、どうしたんだい……?」
暗くなった山を見つめていた男は、少し長い沈黙の末、口を開いた。
「俺は村で大工をしていてな。もう随分長いこと村の中に塔を作っている。誰にも負けない、どこよりも高い塔を建てるんだと、最初は息巻いていたんだが.......。」
大工の男は苦笑いをして続ける。
「嫁さんにも逃げられちまう始末だ。あぁ、いけねえ。こんなどこともしらぬお方に愚痴をこぼしてしまうとは。つまらない話だったな。」
「そんなことは……。」
不思議そうに白いシャツの男が首を傾げる。
「でもどうしてそんなに高い塔を建てようとしているんだい?」
「……そうだな。俺のいる村はな、それは小さい村でな。海も川も近くにあるわけじゃなし、農業も特産品もこれといってパッとしない村なのさ。だから俺は、どこよりも高い塔を建てることにした。そしたらそれを目当てに色んな人が見にきて、行き交う場所になるだろう?俺は、俺はそんな村にしたかったんだ。」
男は口にしながらも、その願いの遠さに苦しさを感じる。
「そうか。なら君には時間がまだある訳だ。」
青年はふと笑う。
「ならばここはひとつ私とゲームをしてくれないかい?」
「ゲーム?」
男は怪訝そうな顔を白シャツの青年へと向ける。
「もし君が本当に死ぬ気なんだとしたら、最後に少し付き合ってくれたって良いだろう?見てごらん。この辺りには蔓や蔦がたくさん蔓延っている。これを使ってより大きい瓦礫をここから吊るした方の勝ち、というのはどうかな。」
男は鼻で笑った。
「俺の専門が何か聞いていたろう。資材を吊るすなんざあ、何度だってやってきた。得意分野だ。たとえ蔓や蔦が材料だったとしても勝つに決まってるさ。」
青年は口元へと手をやり笑った。
「ふふ、そうかもしれないね。なら私が勝ったら君は塔を建てるために山を越えるんだ。君が勝ったら……」
男は白シャツの青年に代わって、しばらくの沈黙の後に答える。
「そうだな……。覚悟の決められない俺に代わって、山の下へと突き落としてくれないか。」
半ば冗談のような男の口ぶりに、しかしそれは思い詰めた声も含んだものだった。
白シャツの青年が苦笑いをした。
「それはいささか、代償が大きいな。会って間もない相手に手を下せなんて、無理を言ったもんだ。」
男は眉をひそめて笑った。
「それもそうだな。俺が勝ったら……そうだな。村へと俺の消息を伝えてくれ。」
大工の男は少しうつむき、足元に這っていたミミズを見つめながらそう呟く。
「まあ、それなら。君のしたいことを停めはしないさ。……幸い周りには色々な瓦礫が落ちている。吊るすものには困るまい。」
白シャツの男の言う通り、崖から迫り出したこの空間は思いがけず広く、所々にベッドや椅子が転がっていた。
「ここはかつて診療所だったのさ。」
男は白シャツの青年を見た。
「……そうか。それで、あんたはここに通っていたってわけか。」
青年は軽く頷いたあと、少し遠くを見るような目をして話し始めた。
「そうだ、ゲームに付き合ってもらうんだ。代わりと言ってはなんだが、ひとつ話を聞かせよう。」
白シャツの青年が少し息を吸い、手を動かしながら続ける。
「僕の教え子の中にはとても病弱な子がいたんだ。常にベッドにいては、外にもなかなか出られない境遇だった。常に外を眺めていたよ。そんななか僕はよく物語を読み聞かせに行っていてね。色んな本を読んで——」
「おいおい、まさかその子のいた診療所っていうのが……」
「ああ、その通りさ。それでたまにここには来ているんだ。」
「それじゃ、その子っていうのは……」
その先の聞き辛さに男は言い淀んだ。
「生きてるさ。」
「えっ?」
「その子はすっかり完治して、今は遠い地で元気にやっている。」
「なんだ、よかったじゃないか。」
男は訝しげに首を傾げた。青年は微笑む。
「なんでこんな話をしたかと言えばね、思い出したんだよ。君が立てているという塔の話を聞いて。」
と青年は続ける。
「そして、その子は高いところからの景色を見てみたいんだと言っていたんだ。きっと君が建てた塔はその子も登ってみたいだろうなと、ふと思ったのさ。」
ーーーその後、2人は無言のまま長いこと蔦と蔓を使い、1本の長い糸のように編んでいった。
しばらくののち、男の編んだ蔦は長く伸び、先にはすでにベッドやら棚が付けられていた。
よし、できた。と顔を上げた時、青年が口にする。
「見てご覧。こうも高いところはこんなにも美しく山が見えるようだ。」
夜明けの光明に照らされた雲は薄青く輝き、森が風に靡くその光景は、静かな山がかすかに震えているようだった。
いつの間にか、暗かった空は白んでいる。
男は束の間、その景色を眺め思わず息を吐いた。
「そうだなぁ……。まだ俺は……大丈夫かもしれねぇ。ありがとうな。」
白いシャツの青年が編んでいた蔦を置いて、振り返り微笑む。
「君の作る塔、そこから見られる景色をとても楽しみにしているよ。先ほど話したその子も、きっと連れていこう。」
「ははっ、何年先になるか分かりゃしないぞ。」
男は顔をくしゃっとする。
その時、遠くから声がした。
はて、と周りを見渡そうとした時におーいと頭上から複数の声が聞こえる。
「おーい!大丈夫かー?今、助けてやるからな!」
口々にかけられる声を聞いて、ああ、助かったと思った。
青年が微笑む。
「君の勝ちだ。」
ふと、何かモヤのようなものが男の頭からなくなり、ハッと気がついた。
「そういえば、あんたどうやってこんなところに。あんたも一緒に……」
そう言って振り返ると、そこにはもう青年の姿はなかった。
彼がいたはずのその場所には、青年が読み聞かせをしたと話していた『どこよりも高い塔』の絵本だけが落ちていた。
まさか......。
おれはキツネにでも化かされていたのだろうか。
崖上の男たちに言われるまま、男は青年と競って作った蔓蔦の縄を上へと高く放り投げ、それを使って上へと引き上げてられていく。
男の頭には、最後の青年の言葉がいつまでも響いていた。
10年後 ーーー
村には、それはそれは高く、そして美しい塔が建てられた。
塔を一目見ようと多くの人々が行き交い、村は栄えた。
塔の最上階には蔓蔦でできた長い長い縄が、まるでお守りのように備え飾られている。
そしてその塔には時折、夕暮れになると白いシャツを着た幽霊が現れると、今も噂が流れているという。
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