氷点下の選択

日常の揺れ

ハリネズミです2025/11/21

登場キャラクター

カフェの片隅で、氷室二郷は参考書を開いていた。

共通テストまであと三ヶ月。机の上には赤と青のペンで埋め尽くされた単語帳が積み重なり、スマートフォンには模試の成績管理アプリが立ち上がったままになっている。画面には先月の全国模試の成績が表示されていた。英語172点、数学168点、国語151点。総合偏差値68.3。「安定した公務員」という夢へ向かう、着実な歩みを示す数字だ。

だが、その数字の下には、見えない誰かの視線が注がれていることを、二郷は知らない。

「二郷、お疲れ。今日も勉強か」

声をかけてきたのは、幻神翼だった。大学生のバイト先輩で、二郷にとって憧れの存在だ。黒いジャケットを羽織った翼は、カウンターから二郷のテーブルへ向かってきた。赤い瞳が、柔らかく笑みながら二郷を見つめる。

「先輩、お疲れです」

二郷は顔を上げた。翼は受験のアドバイスをくれる頼れる先輩で、二郷の成績の推移についても詳しく知っていた。いや、知っていた——というより、知らされていた。翼が毎回、二郷の模試の結果について「この調子なら大丈夫だね」と声をかけるのは、単なる先輩としての気遣いではなく、政府の異能力者管理部門から送られてくる詳細なレポートに基づいていた。

翼は椅子を引いて、二郷の向かいに座った。

「最近、ニュース見てる?」

「え?」

二郷は眉をひそめた。翼の質問は唐突だった。

「神山守人のやつ。ノーマル党の支持率がまた上がったらしいよ。地方議員だけじゃなくて、国会議員候補にも名乗りを上げるんだって」

翼は、カウンターの壁に取り付けられたテレビに目をやった。ちょうどそのタイミングで、ニュース番組が切り替わり、神山守人の映像が映し出された。

ダークネイビーのスーツに真紅のネクタイ。七三分けに整えられた黒髪。細く鋭い目つき。神山は演壇の前に立ち、身を乗り出すようにして、マイクに向かって喋っていた。

「——異能力者は、我々ノーマルな国民の上に立つべき存在ではありません。彼らは特権を享受し、我々の税金で養われている。これは不公正です。ノーマル党は、すべての国民が平等な社会を実現するために——」

テレビの音量は小さかったが、その言葉は二郷の耳に確実に届いた。

二郷の手が、参考書の上で止まった。

「怖いよな。こういう人が力を持つと」

翼は、二郷の反応を観察するように、静かに言った。赤い瞳が、二郷の顔を丁寧に読み取ろうとしている。

「異能力者を敵に回すことで、支持を集めるなんて。それって、差別じゃないですか」

二郷は、ぼそりと呟いた。

翼は、微かに笑った。その笑みは、優しさと冷徹さが混在したものだった。

「そうだね。だからこそ、君みたいに真面目に勉強して、ちゃんとした職に就く人間が増えることが大事なんだ。公務員になって、社会を支える側に回る。そういう『普通の人生』を歩む人間が増えれば、こういう扇動的な政治家の言葉も力を失う」

翼の言葉は、一見すると励ましのように聞こえた。だが、その背後には、明確な意図が隠されていた。二郷を「安定した道」へ誘導する。異能力者組織との接触を避けさせる。政府の管理下に置く。それが翼に与えられた任務だった。

二郷は、翼の言葉に頷いた。

「そうですね。僕も、そう思います」

だが、その言葉の奥底には、別の感情が蠢いていた。自分の力を隠して、「普通」を装い続けることへの、漠然とした違和感。それは、神山のニュースを見るたびに、より強くなっていた。

翼は、二郷の顔をもう一度見つめてから、立ち上がった。

「頑張れよ。君なら大丈夫。絶対に、いい大学に受かる」

その言葉は、励ましというより、確約のように聞こえた。

翼がカウンターに戻ると、二郷は再び参考書に目を落とした。だが、集中力は戻ってこなかった。テレビからは、相変わらず神山の声が流れていた。

——異能力者は、我々の敵です。

その言葉が、二郷の心に、小さな棘のように刺さっていた。


午後三時。カフェは、昼食時を過ぎて、客足が途絶えていた。

二郷は、トイレに立つために席を離れた。その隙をついて、カフェの扉が開いた。

現れたのは、長い黒髪のストレートヘアを持つ女性だった。琥珀色の瞳、赤いカーディガン、黒いタンクトップ。神代零だ。

彼女は、カフェの奥の席に座っていた、スーツ姿の中年男性のもとへ向かった。その男は、どこか不穏な雰囲気を纏っていた。異能力者組織の幹部の一人だ。

「お疲れ様です」

零は、男の向かいに座った。その動作は、優雅で、自信に満ちていた。

「新しいプロジェクトの進捗状況は?」

「順調です。三つの新しい事業が立ち上がり、資金流入も予定通り。ただし——」

男は、周囲を見回してから、声を低めた。

「政府の監視が厳しくなっています。特に、この地域のカフェには、エージェントが配置されているという情報が入りました」

零は、微かに笑った。

「そう。それなら、より慎重に動く必要があるね。ただし、怖がる必要はない。我々は、何も違法なことをしていない。ビジネスは、完全に合法的だ」

その時、カウンターから、翼が現れた。

翼の赤い瞳が、零を捉えた。その瞬間、空気が変わった。

翼は、ゆっくりと、零のテーブルへ向かった。

「お疲れ様です。何かお飲みになりますか?」

翼の声は、丁寧で、親切だった。だが、その言葉の下には、明確な警告が隠されていた。

零は、翼を見上げた。琥珀色の瞳が、赤い瞳と交わった。

「ブラックコーヒー。ホットで」

「かしこまりました」

翼は、その場を離れた。だが、彼は、カウンターから零を見守り続けた。

数分後、翼は、コーヒーを持ってきた。そして、零のテーブルに置く際に、身を屈めて、小さな声で言った。

「氷室に関わるな」

零は、コーヒーカップを手に取った。その動作は、ゆっくりで、余裕に満ちていた。

「誰のことですか?」

「知らないふりをするな。君たちの組織が、彼に接触しようとしていることは、すべて把握している。だから、言っておく。彼には、触れるな」

翼の声は、低く、冷たかった。その赤い瞳には、明確な敵意が宿っていた。

零は、コーヒーを一口飲んだ。そして、翼を見上げた。琥珀色の瞳には、挑戦的な光が宿っていた。

「面白いことを言いますね。彼は、自由な人間じゃないですか。誰と話すか、どの道を歩むか。それは、彼自身が決めるべきことでは?」

「彼は、まだ子どもだ。判断力が不十分な状態で、君たちのような扇動者に接触させるわけにはいかない」

翼の言葉は、一見すると、二郷を守るための言葉に聞こえた。だが、その本質は、二郷を支配下に置き続けるための言葉だった。

零は、微かに笑った。

「判断力が不十分? 彼は、十七歳ですね。十分に判断力を持つ年代です。それに、あなたたちが『安定した人生』を強要することも、一種の支配ではないですか?」

「それは——」

翼は、言葉を失った。

零は、ゆっくりと立ち上がった。

「勝負をしませんか?」

「何を言ってる」

「彼が、最終的に『安定』を選ぶか、『別の道』を選ぶか。その勝負です。あなたたちが『普通の人生』へ導き、彼が政府の管理下に留まるなら、私たちは身を引きます。ですが、もし彼が、自分の力と向き合い、別の道を選ぶなら——」

零は、翼の目を真っ直ぐに見つめた。

「彼は、私たちの仲間になります」

イラスト2

翼は、拳を握った。だが、その場で零に暴力を振るうわけにはいかなかった。カフェは、政府の監視施設だ。すべてが記録されている。

「君たちは、彼を利用しようとしているだけだ」

「そうかもしれません。ですが、あなたたちだって、彼を利用しているじゃないですか。彼の力を、社会秩序の維持のために」

零は、テーブルの上に、紙幣を置いた。

「では、勝負ですね。彼の選択を、見守りましょう」

零は、カフェを出ていった。翼は、その後ろ姿を見つめながら、拳を握り続けた。


トイレから戻ってきた二郷は、翼の表情が硬くなっていることに気づいた。

「先輩? どうしたんですか?」

翼は、その表情を素早く柔らかく変えた。

「あ、何でもない。ちょっと、客対応で疲れただけ」

だが、二郷の心には、何かが引っかかっていた。翼の目が、自分を見つめていた。その視線の奥には、何か複雑な感情が隠されているように感じられた。

二郷は、再び参考書に向かった。だが、集中力は戻ってこなかった。

テレビからは、相変わらず神山のニュースが流れていた。

——異能力者は、我々の敵です。

その言葉が、二郷の心の中で、反響し続けていた。

自分の力は、本当に敵なのか。

それとも、自分を敵だと言う者たちが、本当の敵なのか。

二郷は、参考書のページをめくった。だが、その文字は、もはや意味を持たないように見えた。

窓の外では、夕日が沈みかけていた。カフェの中は、静寂に包まれていた。だが、その静寂の下には、見えない力学が働いていた。

政府とテロ組織。安定と自由。支配と解放。

そして、その中心に、一人の高校生が立っていた。

二郷は、スマートフォンを手に取った。画面には、模試の成績が表示されていた。その数字は、彼の「普通の人生」への道を示していた。

だが、その数字の下には、別の可能性も隠されていた。

二郷は、参考書を閉じた。

「先輩、今日は、ここで失礼します」

「え? まだ、バイトの時間は——」

「すみません。ちょっと、疲れちゃって」

二郷は、バッグを肩にかけた。翼は、その後ろ姿を見つめながら、何かを言いたそうな表情を浮かべた。だが、結局、何も言わなかった。

二郷は、カフェを出た。

夕焼けに染まった街を、彼は歩いていった。

その足取りは、いつもより、少し重かった。


帰宅した二郷は、妹の美咲が、リビングで宿題をしているのを見つけた。

「お兄ちゃん、お疲れ」

美咲は、顔を上げた。その笑顔は、いつもと変わらなかった。

「ああ。お疲れ」

二郷は、美咲の隣に座った。

「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんって、何になりたいの?」

「公務員だよ。安定した仕事」

「そっか。お兄ちゃんは、いつも『安定』『安定』って言ってるね」

美咲は、ペンを置いた。

「でも、お兄ちゃんって、何か、つまらなそうに見える時がある」

二郷は、その言葉に戸惑った。翼先輩の表情の変化、零さんという女性の存在、そして自分への視線。すべてが繋がっているような、そうでないような。頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていた。何か重要なことが起きているのに、自分だけが置き去りにされているような不安感が、胸を締め付けた。

妹の言葉が、自分の心の奥底に、ぐさりと刺さっていた。

窓の外では、夜が深まっていた。

そして、その夜の中で、二郷の「普通の人生」は、静かに、しかし確実に、揺らぎ始めていた。

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