咲良(さくら)
主人公の復讐の動機となる存在
桐谷 蛍(きりたに ほたる)
ヴィス(契約悪魔)
主人公の力の源であり、観察者であり、時に助言者
新宿の夜は、いつも同じ匂いがしていた。
焼き鳥の脂、排気ガス、そして人間の欲望。蛍はそれらが混ざり合った空気を吸い込みながら、歌舞伎町の路地裏を歩いていた。肩までの黒髪が夜風に揺れる。時刻は午後十一時。この時間帯が、稼ぎ時だった。
「蛍ちゃん、今日も来たんだ」
声をかけてきたのは、咲良だった。ショートカットの茶髪が、ネオンサインに照らされて金色に輝いている。いつもの笑顔。どんな状況でも、この子は笑っていた。
「咲良こそ。今日は何件?」
「三件。でも最後のやつ、ちょっと変だったんだよね」
咲良は蛍の腕を軽く叩いた。その仕草は、妹が姉に甘える時のそれだった。蛍たちは血のつながりはないが、この路地裏では家族だった。トヨコキッズ。そう呼ばれる、どこにも属さない少女たちの集団。
蛍が家を出たのは、三ヶ月前だった。
母親の葬式の日、父親は泣かなかった。その代わり、夜中に蛍の部屋に入ってくるようになった。最初は気づかなかった。だが、ある夜、目を覚ました蛍は、暗闇の中で父親が自分の顔を見つめているのに気づいた。その表情は、何かを確認するような、何かを失うことへの恐怖に満ちていた。
蛍は理解できなかった。ただ、その視線が怖かった。
翌日、蛍は家を出た。
最初は公園で寝た。その次は駅の地下。そして、誰かが「トー横に行けば、仲間がいる」と教えてくれた。新宿東宝ビルの周辺。そこには、蛍と同じように、どこかから逃げてきた少女たちがいた。
咲良と出会ったのは、そこからだった。
「蛍ちゃんは?」
「今から。初めてだから、ちょっと緊張してる」
蛍は本当のことを言った。咲良は笑った。その笑顔は、太陽のようだった。
「大丈夫。蛍ちゃんは強いから。何があっても、蛍ちゃんなら大丈夫」
咲良はそう言って、蛍の手首に何かを巻きつけた。手作りのミサンガだった。赤と白と黒の糸が、複雑に編み込まれている。
「これ、私が作ったの。蛍ちゃんのお守り。これがあれば、何があっても大丈夫」
蛍はそのミサンガを見つめた。咲良の手作り。この子の優しさが、糸に込められているような気がした。
「ありがとう」
蛍はそう言った。
その夜、蛍は初めて客を取った。
ホテルの部屋は、想像していたより汚かった。男は四十代で、目つきが悪かった。蛍は、咲良から教えてもらった通りにした。笑顔を作る。相手の言葉に合わせる。自分の気持ちは、どこか遠くに置いておく。
それは、生きるための技術だった。
男は蛍を見つめていた。その視線は、何かを値踏みするようなものだった。蛍は、その視線に耐えた。咲良の言葉を思い出した。「蛍ちゃんは強いから」。
その時、蛍は気づかなかった。
暗がりの中に、何かが潜んでいることに。
それは、人間の形をしていなかった。黒い羽毛と鱗が混在した体表。複数の目が不規則に配置された頭部。背中には破れた翼のような器官。黒い霧を纏った、異形の存在。
ヴィスは、蛍を観察していた。
この少女は面白い、と悪魔は思った。絶望の中にいながら、まだ何かを信じようとしている。堕落しかけているのに、完全には堕ちていない。その揺らぎが、蜜のような甘さを放っていた。
ヴィスは、ただ観察することにした。この少女がどこまで堕ちるのか。その過程を、蜜として味わうために。
それから、蛍の日常は繰り返された。
昼間は、トー横の路地裏で過ごす。美月という別の少女と一緒に、コンビニで弁当の廃棄品をもらったり、公園で時間を潰したりした。夜間は、客を取る。ホテルに行く。金をもらう。その金で、仲間たちと一緒にホテルの一室を借りて、夜を過ごす。
それが、蛍たちの生活だった。
「蛍ちゃん、最近疲れてない?」
美月が聞いた。彼女は蛍より一つ年上で、トー横に来てから一年以上経っていた。目つきは、蛍より大人びていた。
「大丈夫。慣れてきた」
蛍は答えた。それは、本当だった。最初の恐怖は、もう感じなくなっていた。代わりに、何か別のものが、蛍の中に生まれていた。それが何なのか、蛍は理解していなかった。
咲良は、相変わらず笑っていた。
「蛍ちゃん、今日も一緒に稼ごう。そしたら、みんなでホテル行こう。美月も来るって」
咲良の笑顔は、変わらなかった。だが、蛍は気づいていた。その笑顔の奥に、何か別のものがあることに。それは、希望なのか、それとも絶望なのか。蛍は、それを知りたかった。
だが、咲良は何も言わなかった。
蛍は、咲良から何か言ってほしかった。本当のことを。この生活がいつまで続くのか。この先、どうなるのか。そういったことを。だが、咲良は笑顔を保ったまま、何も言わなかった。
それが、蛍にとって最も辛かった。
その夜は、いつもと違っていた。
咲良が、蛍に声をかけた。
「蛍ちゃん、今日は別のとこ行こう。いつもと違う客」
蛍は、咲良を見つめた。その笑顔は、いつもと同じだった。だが、何かが違っていた。
「どこ?」
「新しいホテル。客が指定してきたの。給料もいいって」
蛍は、迷った。だが、咲良の笑顔に、蛍は従った。
ホテルは、蛍が知らない場所だった。古い建物。薄暗い廊下。部屋の中は、いつもより狭かった。
男は、一人ではなかった。
二人いた。三人いた。蛍は、その時点で気づくべきだった。だが、気づかなかった。
「咲良は?」
蛍は聞いた。
「別の部屋。心配すんな」
男の一人が、蛍を押し倒した。
蛍は、抵抗した。だが、力は足りなかった。蛍は、まだ十四歳だった。男たちは、蛍を押さえつけた。
その時、蛍は初めて、本当の恐怖を感じた。
咲良から教えてもらった技術は、ここでは通用しなかった。笑顔も、相手の言葉に合わせることも、何も役に立たなかった。蛍は、ただ押さえつけられていた。
そして、男の一人が、スマートフォンを取り出した。
蛍は、その時、理解した。これは、何かの記録だ。自分たちが、何かの記録になるということ。
蛍は、抵抗をやめた。
代わりに、蛍は考えた。咲良は、どうなったのか。別の部屋にいるはずの咲良は。
その時、男の手が、蛍の首に巻きついた。
蛍は、息ができなくなった。視界が、暗くなっていった。意識が、遠ざかっていった。
死ぬ、と蛍は思った。
ここで、死ぬんだ。
その時だった。
暗がりの中から、何かが現れた。
それは、人間の形をしていなかった。黒い羽毛と鱗。複数の目。破れた翼。黒い霧。
ヴィスだった。
だが、蛍には見えなかった。蛍の視界は、もう暗くなっていた。だが、蛍は感じた。何かが、そこにいることを。
そして、声が聞こえた。
「契約しないか、ビッチ」
それは、蛍の耳に直接、響いた。
蛍は、その声に答えた。意識の奥底から、蛍は答えた。
「はい」
その時、蛍の意識は、完全に暗くなった。
蛍が目を覚ましたのは、ホテルの床の上だった。
男たちは、倒れていた。一人は、壁に叩きつけられたのか、血を流していた。もう一人は、動いていなかった。
蛍は、起き上がった。首は、痛かった。だが、蛍は生きていた。
そして、蛍は見た。
床の上に、スマートフォンが落ちていた。蛍は、それを拾った。
画面には、動画が再生されていた。
蛍は、その動画を見た。
そこには、多くの少女たちが映っていた。蛍が知らない少女たち。だが、その中に、一人、蛍が知っている少女がいた。
咲良だった。
咲良は、その動画の中で、笑っていなかった。
蛍は、その動画を見つめた。
その時、蛍の中で、何かが変わった。
それは、怒りだった。それは、絶望だった。それは、復讐心だった。
そして、蛍は誓った。
咲良を殺した者たちを、必ず殺す。
その誓いの中で、蛍は気づかなかった。
暗がりの中で、ヴィスが笑っていることに。
この少女は、ついに堕ちた。だが、完全ではない。その不完全さこそが、俺の『美学』だ。強制ではなく、自らの意志で選んだ復讐。その選択の中に、どれほどの穢れが隠れているのか。それを引き出し、育てることが、俺の喜びなのだ。
ヴィスは、蛍を観察し続けることにした。
この少女がどこまで堕ちるのか。その過程を、蜜として味わうために。
そして、蛍は、その時点では気づかなかった。
自分が、もう悪魔の手の中にあることに。
自分が、もう「穢れた者」の道を歩み始めたことに。
蛍は、ただ、咲良の笑顔を思い出していた。
その笑顔が、もう二度と見られないことを、蛍は知っていた。
だが、蛍は、その事実を受け入れることができなかった。
代わりに、蛍は、復讐を選んだ。
その選択が、蛍の人生を、どこへ導くのか。
それは、まだ、誰にも分からなかった。
翌日、蛍はトー横に戻った。
美月が、蛍を見つめた。その目には、何かが映っていた。それは、恐怖だったのか、それとも理解だったのか。
「蛍、何があった?」
美月は聞かなかった。代わりに、蛍を抱きしめた。
蛍は、その腕の中で、初めて泣いた。
咲良のミサンガは、蛍の手首に、まだ巻きついていた。
赤と白と黒の糸が、蛍の肌に食い込んでいた。
蛍は、そのミサンガを握りしめた。
「咲良を、取り戻す」
蛍は、そう呟いた。
だが、蛍は知っていた。咲良は、もう戻ってこないことを。
代わりに、蛍は、咲良を殺した者たちを、殺すことを誓った。
その誓いの中で、蛍は、自分が何かを選んだことを感じていた。悪魔だろうが何だろうが、この力を使うのは私だ。
それが、何なのか。蛍は、まだ、理解していなかった。
だが、暗がりの中で、ヴィスは笑っていた。
この少女は、ついに、契約者になった。
完全には堕ちていないが、堕ちかけている。その揺らぎが、蜜のような甘さを放っている。
ヴィスは、蛍を観察し続けることにした。
この少女がどこまで堕ちるのか。その過程を、蜜として味わうために。
そして、蛍は、その時点では気づかなかった。
自分が、もう悪魔の手の中にあることに。
自分が、もう「穢れた者」の道を歩み始めたことに。
蛍は、ただ、復讐を求めていた。
その復讐が、蛍を、どこへ導くのか。
それは、まだ、誰にも分からなかった。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
蛍は、もう、戻ることができない。
その道の先に、何があるのか。
それは、蛍自身も、ヴィスも、知らなかった。
ただ、蛍は歩み続けるしかなかった。
咲良のミサンガを握りしめながら。
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