「佐藤さん、この仕様変更、明日の朝までに対応できますよね？」
プロジェクトマネージャーの笑顔には、すでに断る余地がないことが滲んでいた。佐藤健太郎（35）は、モニターから目を離さずに小さく頷いた。
「はい、なんとか」
「さすが佐藤さん！ 頼りになりますね！」
軽快な足音とともに去っていくプロジェクトマネージャー。健太郎は深いため息をついた。今日も終電はなくなった。いや、そもそも帰れるのかすら怪しい。
「また徹夜か...」
健太郎は疲れた目をこすりながら、デスクの上のエナジードリンクに手を伸ばした。もう何本目だろう。カフェインで無理やり覚醒させた脳が、鈍く痛んでいる。
気がつくと、健太郎は見知らぬ天井を見上げていた。
「ここは...？」
石造りの高い天井。窓から差し込む柔らかな朝日。どこか中世ヨーロッパの城のような雰囲気だ。
「あ、目が覚めましたか！」
明るい声とともに、赤い長い髪をした少女が視界に入ってきた。緑色の瞳が好奇心に満ちて健太郎を見つめている。
「私、リーナ・ファイアハートです。あなたが新しい使用人さんですよね？」
健太郎は混乱したまま上半身を起こした。頭がズキズキと痛む。
「使用人...？ここはどこだ？」
「王立魔法学院ですよ。昨日、廊下で倒れていたところをマーカス学院長が見つけたんです。」
魔法学院？学院長？何を言っているのか理解できない。健太郎は自分の記憶を必死にたどった。確か、オフィスで徹夜作業をしていて...。
「私、転生したのか...？」
リーナは首を傾げた。
「転生？何のことですか？ とにかく、あなたは新しい使用人として雇われたんですよ。名前は？」
「佐藤健太郎だ...」
「さとう...けんたろう？ 変わった名前ですね！」リーナは明るく笑った。「ケンと呼んでもいいですか？」
健太郎が返事をする前に、部屋のドアが開き、白髪と長い白髭の老人が入ってきた。威厳のある姿に、健太郎は思わず背筋を伸ばした。
「目が覚めたようだな。私はマーカス・グレイストーン、この王立魔法学院の学院長だ」
「マーカス学院長、彼の名前はケン...じゃなくて、佐藤健太郎だそうです！」リーナが元気よく報告した。
マーカスは健太郎を観察するように見つめた。
「ふむ...見慣れない服装だな。どこの出身だ？」
健太郎は自分の服を見下ろした。確かに、スーツとネクタイという出で立ちは、この中世風の環境では奇妙に映るだろう。
「日本...東京です」
「にほん？とうきょう？」マーカスは眉をひそめた。「聞いたことのない国だな。遠方から来たのか？」
健太郎は状況を理解し始めていた。これは異世界転生というやつだ。漫画やライトノベルでよくある展開。まさか自分がそんな状況に陥るとは。
「はい、かなり遠いところから来ました」
「そうか。とにかく、昨日の話の通り、使用人として働いてもらう。リーナ、彼に仕事を教えてやれ」
「はい、学院長！」
マーカスが部屋を出ていくと、リーナは健太郎に向き直った。
「さあ、ケン！まずは制服に着替えて、それから学院の案内をします！」
数時間後、健太郎は魔法学院の使用人としての基本的な仕事を教わっていた。廊下の掃除、書庫の整理、食堂の手伝いなど、特別な技術は必要ないが、地道な作業が多い。
「ケン、この本を魔法実験室に運んでくれる？」
リーナは分厚い魔法書の山を指さした。健太郎はため息をつきながらも本を抱え、リーナの後について歩き始めた。
「リーナは学生なのに、なぜ私に仕事を教えているんだ？」
「私、成績があまり良くなくて...」リーナは少し恥ずかしそうに笑った。「補習代わりに雑用を手伝っているんです。でも、魔法は好きなんですよ！ただ、暗記が苦手で...」
「暗記？」
「ええ、魔法の詠唱は全部暗記なんです。言葉の一つでも間違えると、魔法が発動しないか、最悪の場合は暴走します」
健太郎は興味を持った。「それは非効率だな。プログラミングなら、同じ処理を何度も書くのではなく、関数化して再利用するのに」
「プログラミング？関数？何のことですか？」
健太郎は自分が何を言っているのか気づき、慌てて話題を変えようとした。しかし、リーナの好奇心は既に刺激されていた。
「面白そう！もっと教えてください！」
健太郎は少し困惑しながらも、簡単な例を挙げて説明した。「例えば、同じ動作を何度も繰り返すなら、その動作に名前をつけて、必要なときに呼び出すだけにする。そうすれば効率的だ」
「それって...魔法の詠唱も同じようにできないかな？」リーナの目が輝いた。
その瞬間、健太郎の頭の中で何かが閃いた。まるでシステム画面が浮かび上がるように、リーナの魔法詠唱が分析され、効率化できる部分が浮き彫りになる。
「これは...」
健太郎は本を床に置き、リーナに向き直った。「リーナ、簡単な魔法を一つ詠唱してみてくれないか？」
リーナは少し驚いたが、素直に従った。「えっと...では光の魔法を」
彼女が詠唱を始めると、健太郎の頭の中でその魔法の構造が可視化された。まるでプログラムコードを見ているかのように、冗長な部分、最適化できる部分が明確に見えた。
「待って、その詠唱の中で繰り返している部分、もっと短くできるはずだ」
健太郎は直感的に修正案を提案した。リーナは半信半疑ながらも、健太郎の指示通りに詠唱を修正してみた。
すると、彼女の指先から通常より明るい光が放たれた。それも、通常より少ない魔力消費で。
「すごい！どうしてわかったんですか？」リーナは目を丸くして健太郎を見つめた。
健太郎自身も驚いていた。どうやら彼は「スキル解析」と「システム構築」という特殊能力を持っているらしい。魔法をプログラミング言語のように解析し、最適化できるのだ。
「これは...面白いかもしれない」
健太郎の口元に、久しぶりの笑みが浮かんだ。
その日の夕方、リーナと健太郎は魔法学院の中庭で実験を続けていた。健太郎の指導のもと、リーナは次々と魔法の詠唱を効率化していった。
「ケン、これってすごいことですよ！誰も思いつかなかった方法です！」
リーナの興奮は隠せなかった。彼女は従来の10分の1の詠唱で、同じ効果の魔法を発動できるようになっていた。
「魔法も結局はシステムだ。インプットとアウトプットの関係を最適化すれば、効率は上がる」
健太郎は当たり前のように説明したが、リーナにとってはそれが革命的だった。
「ねえ、これをマーカス学院長に見せましょう！きっと驚くと思います！」
「いや、待て。私はただの使用人だ。余計なことをして目立つべきじゃない」
健太郎は前の職場での経験から、余計なことをして上司の機嫌を損ねることの危険性を知っていた。しかし、リーナの熱意は止められなかった。
「大丈夫です！学院長は本当は進歩的な人なんです。きっと喜びますよ！」
リーナは健太郎の腕を引っ張り、学院長室へと向かった。
マーカス・グレイストーンは、窓際に立って夕暮れを眺めていた。ノックの音に振り返ると、リーナと健太郎が部屋に入ってきた。
「学院長！すごいことを発見しました！」
リーナの興奮した声に、マーカスは眉を上げた。
「何事だ、リーナ？」
「ケン...じゃなくて、佐藤さんが魔法の詠唱を効率化する方法を教えてくれたんです！見てください！」
リーナは従来の詠唱と、健太郎が教えた効率化された詠唱を実演した。マーカスの表情が徐々に変わっていく。最初は懐疑的だったが、結果を目の当たりにして驚きに変わった。
「これは...驚くべきことだ。佐藤、君はどこでこのような知識を得た？」
健太郎は言葉を選びながら答えた。「私の世界では、効率化と最適化が重要視されています。魔法を見たとき、同じ原理が適用できると思いました」
マーカスは深く考え込んだ。「君の世界...？」
健太郎は覚悟を決めた。「実は私は別の世界から来たのだと思います。どうやってここに来たのか、どうやって帰れるのかもわかりません」
マーカスとリーナは驚いた表情を見せたが、マーカスはすぐに冷静さを取り戻した。
「異世界からの訪問者か...興味深い。だが、それよりも君の持つ知識と能力に興味がある。佐藤、君を使用人ではなく、特別研究員として迎えたい」
健太郎は驚いた。「特別研究員？」
「ああ。君の知識は我々の魔法界に革命をもたらす可能性がある。リーナを弟子として、魔法の効率化研究を進めてほしい」
リーナは喜びのあまり飛び跳ねた。「やったー！ケン、これで一緒に研究できますね！」
健太郎は複雑な心境だった。異世界に来てしまったことへの戸惑いはあるが、自分のスキルが評価される喜びもあった。前の職場では決して得られなかった認められる感覚。
「わかりました。できる限りのことをします」
マーカスは満足げに頷いた。「明日から新しい部屋と研究室を用意しよう。佐藤、君の知識が我々の世界をどう変えるか、楽しみだ」
その夜、健太郎は与えられた部屋のベッドに横たわり、天井を見つめていた。
「異世界か...まさか本当にあるとは」
日本への帰り道を探すべきか、それともこの世界で新しい人生を始めるべきか。考えれば考えるほど、答えは出なかった。
ノックの音がして、ドアが開いた。リーナが顔を覗かせる。
「ケン、眠れないの？」
「ああ、少し考え事をしていた」
リーナは部屋に入り、椅子に腰掛けた。「自分の世界のこと？」
「ああ...でも、実を言うと、あまり未練はないんだ」
健太郎は苦笑した。ブラック企業での日々、評価されない努力、人間関係の希薄さ。この異世界での数時間の方が、人間らしい扱いを受けている気がした。
「ケン、あなたの知識はここでは宝物です。マーカス学院長も言ってたけど、魔法界に革命を起こせるかもしれない」リーナの目は真剣だった。「それに...私、あなたから学びたいことがたくさんあります」
健太郎はリーナの熱意に心を動かされた。彼女の純粋な好奇心と学ぶ意欲は、かつての自分を思い出させた。IT業界に入る前の、知識への純粋な情熱を持っていた頃の自分を。
「わかった。とりあえず、できることからやってみよう」
健太郎は決意した。この世界で、自分のスキルと知識を活かす道を探してみる。ブラック企業では評価されなかった彼の能力が、この異世界では革命的な価値を持つかもしれない。
「やった！明日から頑張りましょう！」リーナは嬉しそうに笑った。「ケン、あなたと出会えて本当に良かった」
健太郎は久しぶりに心から笑顔になった。「俺もだ、リーナ」
窓の外では、見たこともない星々が輝いていた。新しい世界での、新しい人生の始まり。健太郎の異世界プロジェクトマネジメントが、今始まろうとしていた。
（つづく）
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