朝日が王立魔法学院の石造りの窓から差し込み、佐藤健太郎の顔を照らした。特別研究員として与えられた個室は、使用人部屋よりはるかに広く、机と本棚が備え付けられていた。
「まさか異世界でも締め切りに追われることになるとは」
健太郎は溜息をつきながら、机の上に広げた羊皮紙に向かって計算を続けた。昨日、学院長のマーカスから王国が直面している水不足問題について相談を受けたばかりだった。
「佐藤殿、君の魔法効率化の手法が王国の危機を救うかもしれん。王都の水源が枯渇しつつあるのだ」
そう言われて断る理由はなかった。ブラック企業時代の「断ったら左遷」という恐怖はないものの、この世界で生きていくには実績を作る必要がある。
健太郎は窓の外に広がる見慣れない景色を眺めた。空には二つの月が薄く浮かび、遠くには魔法の光で輝く塔が見える。
「一ヶ月前までは終電逃して会社の床で寝てたのに…」
彼は自分の手のひらを見つめた。この世界では魔力を操ることができる。不思議な感覚だった。異世界に来て以来、彼の中には常に違和感があった。まるで自分が本来いるべき場所ではないという感覚。それでも、ここでの生活は前世よりも遥かに充実していた。
ノックの音が部屋に響き、ドアが開いた。
「先生!おはようございます!」
リーナ・ファイアハートが元気よく部屋に飛び込んできた。赤い長い髪を揺らし、明るい緑色の瞳を輝かせている。
「リーナ、朝から元気だな。それに『先生』なんて呼ばなくていいって言っただろ」
「でも、佐藤さんは私の先生ですもの。それに特別研究員になったんですから」
健太郎は苦笑した。リーナの素直さは、ブラック企業の裏表だらけの人間関係に疲れていた彼にとって、新鮮だった。
「それより、水源の調査に行くんでしょう?私も連れていってください!」
リーナの目には決意が宿っていた。健太郎は彼女の表情に何か特別なものを感じ取った。
「どうした?特に熱心だな」
リーナは少し俯き、声のトーンを落とした。
「実は…私の故郷の村も水不足で苦しんでいるんです。父は村長として解決策を見つけようと必死でした。でも、貴族の支援もなく…」
彼女は拳を握りしめた。
「だから私は魔法学院に入ったんです。水を操る魔法を極めて、村を救うために。でも、まだ力が足りなくて…」
健太郎は彼女の肩に手を置いた。
「なるほど。だからあんなに水の魔法研究に打ち込んでいたのか」
「はい。学院では『平民の分際で高望みしすぎ』と言われることもありますが、諦めるつもりはありません」
健太郎は静かに頷いた。リーナの目に映る決意は、かつての自分を思い出させた。
「ああ、今日は王宮付きの水源管理の専門家と会う予定だ。君も来るといい。実地で学ぶことは多いはずだから」
リーナは嬉しそうに飛び跳ねた。
「本当ですか?ありがとうございます!」
健太郎は微笑みながらも、心の中で思った。 「この世界でも、才能ある人間が身分で制限されるのか…」
王宮の水源管理局は、王城の西翼に位置する石造りの建物だった。入口で待っていたのは、青い瞳と実用的に結い上げた髪が特徴的な女性だった。
「エリザベス・ウィンドブルームです。水源管理を担当しています」
彼女は簡潔に自己紹介し、健太郎とリーナを中に案内した。部屋の中央には大きな地図が広げられ、青い線で水路が描かれていた。エリザベスの服装は質素だが整然としており、貴族の官吏としては珍しく装飾品をほとんど身につけていなかった。
「現状を説明します。王都の主要水源である北の湧き水が、ここ数年で徐々に減少しています。浄水魔法で対応していますが、根本的な解決には至っていません」
エリザベスの説明は無駄がなく、要点を押さえていた。健太郎は思わず頷いた。
「具体的なデータはありますか?水量の減少率や季節変動など」
エリザベスは少し驚いた表情を見せた。
「データ、ですか?記録はありますが、そのような分析は…」
「問題解決には現状の正確な把握が必要です。過去5年分のデータがあれば、傾向が見えるかもしれません」
健太郎の言葉に、エリザベスは静かに頷いた。
「わかりました。記録を集めさせます」
彼女は一瞬ためらった後、少し声を落として続けた。
「実は…私は平民の出身です。水源管理の技術を独学で学び、実力だけでこの地位に就きました。貴族社会では珍しいことですが…」
健太郎は興味深そうに彼女を見た。
「それは大変なことだったでしょう」
「ええ。特に伝統を重んじる古い貴族たちからは、常に『分を弁えろ』と言われ続けてきました。でも、水は全ての人に必要なもの。身分に関係なく、最適な管理をしたいのです」
リーナが目を輝かせた。
「私も同じです!魔法は一部の特権階級のものではなく、みんなの役に立つべきだと思います」
エリザベスは初めて柔らかい笑顔を見せた。
「あなたも…そうだったのですね」
リーナが好奇心いっぱいの目で二人の会話を追っていた。
「先生、何か計画があるんですか?」
「ああ、まずは現状分析だ。それから解決策を考える。プロジェクト管理の基本だよ」
「プロジェクト…管理?」
「複雑な問題を解決するための方法論だ。今から説明しよう」
健太郎は羊皮紙を取り出し、横線と縦線を引いて表を作り始めた。前世では当たり前だったこの手法も、この世界では革新的なものだ。彼は一瞬、自分が異世界にいることの不思議さを感じた。
「これをガントチャートという。横軸が時間、縦軸が作業項目だ。いつ、何をするかを視覚化できる」
リーナとエリザベスは興味深そうに覗き込んだ。
「そして、ここに重要な節目を設定する。これをマイルストーンと呼ぶ。例えば、『データ収集完了』『原因特定』『対策立案』『実装開始』といった具合だ」
健太郎は羊皮紙に書き込みながら説明を続けた。
「さらに、成功を測る指標、KPIも設定する。この場合は『水源の水量増加率』『浄水魔法の効率化率』などが考えられるな」
エリザベスが眉を上げた。
「なるほど…これは実に論理的です。私たちは経験と勘に頼りすぎていたのかもしれません」
「経験と勘も重要です。それをデータと組み合わせることで、より確実な解決策が見つかります」
健太郎の言葉に、エリザベスの表情が柔らかくなった。
「佐藤さん、あなたの世界ではこのような方法が一般的なのですか?」
健太郎は少し苦い表情を浮かべた。
「ああ…理想的には。でも実際には形だけ真似て、中身が伴わないことも多かった。私の前の職場は特にひどくてね」
彼は思わず前世の記憶に引き戻された。終わらない会議、意味のない書類作成、上司の機嫌取り…。
「でも、ここでは違う。本当に役立つ形で実践したい」
健太郎の目に決意が宿った。エリザベスとリーナはその変化に気づき、静かに頷いた。
三日後、健太郎たちは北の水源を訪れていた。エリザベスが集めた過去のデータを分析した結果、水量減少が特定の時期から始まっていることが判明したのだ。
「ここが主水源です」
エリザベスが案内した場所は、岩に囲まれた清らかな泉だった。周囲には魔法の結界が張られ、複数の水路が王都へと続いている。
健太郎は泉を注意深く観察した。
「水の色が少し濁っていますね」
「はい、浄水魔法で対応していますが、年々強化が必要になっています」
健太郎は周囲の地形を確認し、何かを思いついたように立ち止まった。
「この丘の向こうに何かありますか?」
「新しく開拓された農地です。三年前から使われ始めました」
「三年前…データの減少が始まったのと同じ時期だ」
健太郎は丘を登り、向こう側を見た。広大な農地が広がり、魔法による灌漑システムが張り巡らされていた。
「原因はこれだ。農地の灌漑が地下水脈に影響を与えている可能性が高い」
エリザベスとリーナも丘に登り、農地を見下ろした。
「でも、この農地は王国の食料生産に不可欠です。簡単に止めることはできません」
エリザベスは心配そうに付け加えた。
「しかも、この農地はハイタワー家の所有地です。彼らは王国最古の魔法貴族で、伝統を重んじる保守派の中心。私のような平民出身者の意見など聞く耳を持たないでしょう」
健太郎は頷いた。
「止める必要はない。水の循環を最適化すればいい」
彼は羊皮紙を取り出し、図を描き始めた。
「リーナ、君が研究していた水の流れを制御する魔法は応用できるか?」
リーナは目を輝かせた。
「はい!『アクアフローコントロール』の魔法です。でも大規模に使うには魔力が足りません」
彼女は少し恥ずかしそうに続けた。
「村の長老から教わった古い魔法なんです。学院では『時代遅れ』と言われていますが…」
「古い知恵と新しい技術の融合こそが、最良の解決策を生み出すことがある」
健太郎の言葉にリーナの目が輝いた。
「そこでエリザベスさんの浄水魔法と組み合わせる。二つの魔法を連携させれば、効率よく水を循環させられるはずだ」
エリザベスが図を覗き込んだ。
「これは…水を浄化しながら循環させる仕組みですね。理論上は可能ですが、魔法の詠唱が複雑になります」
「それなら私が解決します!」リーナが自信たっぷりに言った。「佐藤先生に教わった魔法の効率化を使えば、詠唱を簡略化できます!父が村の水源を守るために使っていた魔法と組み合わせれば…」
彼女の声には、故郷の村を救いたいという切実な思いが込められていた。
健太郎は満足げに頷いた。
「よし、計画を立てよう。まずは小規模な実験から始めて、効果を確認する」
王立魔法学院の実験室。健太郎、リーナ、エリザベスの三人は、模型を使った実験に取り組んでいた。
「リーナの魔法とエリザベスさんの浄水技術を組み合わせた結果、水の循環効率が43%向上しました」
健太郎は結果を記録しながら説明した。エリザベスは感心した様子で模型を見つめていた。
「信じられません。これほどの効率化が…」
「理論と実践の融合です。リーナの柔軟な発想とあなたの専門知識があったからこそ」
リーナは嬉しそうに飛び跳ねた。
「やりました!これで水不足は解決できますね?」
彼女の目には、故郷の村の風景が浮かんでいた。干上がりかけた井戸の前で途方に暮れる村人たち、必死に水を探す父の姿…。
「これが成功すれば、村にも応用できる。父に見せたい…」
「まだ実際の規模での検証が必要だ。それに…」
健太郎の言葉が途切れた瞬間、実験室のドアが勢いよく開いた。
「何をしているのかと思えば、こんな子供じみた実験か」
入ってきたのは、高貴な身なりの中年男性だった。冷たい青い目と鷹のような鼻が特徴的だ。
「ドミニク卿…」エリザベスが緊張した声で言った。彼女の姿勢は自然と硬くなり、目線は床に向けられた。長年の習慣だった。
「ドミニク・ハイタワー卿です」リーナが健太郎に小声で説明した。「王国の有力貴族で、伝統的な魔法の守護者と自称しています。エリザベスさんのような平民出身の魔法使いを特に嫌っているんです」
ドミニクはエリザベスを無視し、健太郎を上から下まで見下ろした。
「異世界から来たという使用人風情が、我が国の水源問題に口を出すとは。マーカス学院長も老いぼれたものだ」
健太郎は冷静に対応した。前世のパワハラ上司を相手にしてきた経験が、今ここで役立っていた。しかし、心の中では怒りが渦巻いていた。
「ハイタワー卿、私たちは王国の問題解決のために研究しています。成果は数字で証明できます」
「数字?魔法は芸術だ、科学ではない。千年の伝統を持つ我々の魔法を、よそ者が理解できるはずがない」
ドミニクは実験模型を一瞥し、鼻で笑った。
「この程度の玩具で王国の危機が救えると思うなよ。水源問題は魔法評議会が対処する。素人は手を出すな」
彼はエリザベスに冷たい視線を向けた。
「特に、身分を忘れた者たちがな」
エリザベスの拳が震えた。しかし、彼女は何も言い返さなかった。
ドミニクはリーナにも視線を向けた。
「ファイアハート家の娘だったな。平民の村から出てきた分際で、名門の学院に入れたのは運が良かっただけだ。分をわきまえるがいい」
リーナの顔が赤くなった。健太郎は彼女の肩に手を置き、一歩前に出た。
「ハイタワー卿、人の価値は生まれではなく、その行動と成果で決まるものです」
健太郎の声は静かだったが、芯があった。ドミニクは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに冷笑を浮かべた。
「よそ者の戯言だ」
そう言い残し、ドミニクは部屋を出て行った。
重苦しい沈黙が流れた後、エリザベスが溜息をついた。
「彼は魔法評議会の有力メンバーです。彼が反対すれば、私たちの計画は承認されないでしょう」
彼女の声には諦めが混じっていた。長年の差別と闘ってきた疲れが見えた。
「私のような平民出身者が高い地位に就くことを、彼らは許せないのです。何度も妨害されてきました…」
健太郎は静かに言った。
「データと結果があれば、必ず道は開ける」
彼の声には確信があった。前職では理不尽な要求や妨害に何度も直面してきた。しかし今回は違う。彼には仲間がいる。
「リーナ、エリザベスさん。私たちでチームを作りましょう。それぞれの強みを活かして、この問題を解決します」
健太郎の目には決意が宿っていた。ブラック企業では孤立無援だったが、ここでは違う。信頼できる仲間と共に、彼は新しいプロジェクトに挑もうとしていた。
リーナが拳を握りしめた。
「私、絶対に諦めません!父と村のみんなのためにも、この魔法を完成させます!」
エリザベスも静かに頷いた。
「私も…長年、自分の出自を恥じるように仕向けられてきました。でも、それは間違いです。私たちの知識と技術が、王国を救えるはずです」
健太郎は二人の決意に応えるように言った。
「まずはプロジェクト計画書を作成します。目標、スケジュール、役割分担を明確にして、マーカス学院長に提出しましょう」
リーナが興奮した様子で言った。
「私たちのチームに名前をつけましょう!」
健太郎は少し考えて答えた。
「『水源再生プロジェクトチーム』でどうだろう」
エリザベスが静かに微笑んだ。
「シンプルで目的が明確ですね。賛成です」
健太郎は羊皮紙に計画を書き始めた。かつてのブラック企業での経験が、今は彼の武器になっていた。理不尽に耐え、諦めずに問題解決に取り組んできた経験が、今この異世界で活きている。
「今度は違う。私たちは良いチームを作る。互いを尊重し、能力を最大限に活かせるチームを」
健太郎の心の中で、そんな誓いが生まれていた。窓から差し込む夕日が、三人の姿を温かく照らしていた。
彼は自分の手のひらを見つめた。異世界に来て以来、常に感じていた違和感。しかし今、この瞬間は違った。リーナとエリザベスと共に問題に立ち向かうこの場所こそ、今の自分が本当にいるべき場所なのかもしれない—そう思えた瞬間だった。
(続く)
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