幻神翼
主人公を「普通の安定した人生」へ導く監視役
神代零
主人公を組織に引き入れようとする誘惑者
神山守人
敵
カフェ「ブルームーン」の壁掛けテレビから、甲高い声が店内に響いていた。
「能力者特権を許すな! 我々ノーマル党は、真の平等を取り戻します!」
画面の中で、七三分けの男が拳を振り上げている。神山守人。元ユーチューバーから政治家に転身した男の顔を、氷室二郷は参考書の隙間から横目で見た。
カウンター席に座る二郷の前には、開きっぱなしの英単語帳と、半分まで解いた数学の問題集。共通テストまで、あと三ヶ月。
「また神山か」
奥のキッチンから、幻神翼の声が聞こえた。黒いエプロン姿の翼が、コーヒーカップを拭きながらカウンターに近づいてくる。
「うるさいよな、あいつ。チャンネル変えていい?」
「あ、はい」
二郷が頷くと、翼はリモコンを手に取った。画面が切り替わり、天気予報に変わる。店内に穏やかなBGMだけが流れ始めた。
(小さく呟く)「まあ、神山の言ってることも...一理あるけどな」
「え?」
「ん? いや、何でもない」(いつもの笑顔)
「二郷、模試の結果どうだった?」
「まあまあです。英語が少し上がって」
「おー、やるじゃん」
翼が二郷の肩を軽く叩く。その手は温かく、頼もしかった。大学生の先輩として、翼はいつも二郷の勉強を気にかけてくれる。バイトのシフトが被ると、休憩時間に受験のアドバイスをくれることもあった。
「でも、数学がまだ……」
「数学は積み重ねだからな。焦んなくていいよ」
翼はそう言って、新しいコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が心地よく響く。
二郷は再び参考書に目を落とした。公務員になる。安定した仕事に就く。それが二郷の目標だった。リスクのない、予測可能な人生。
――でも、本当にそれでいいのか?
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
二郷は小さく首を振った。答えを出す必要はない。今はまだ、動く時じゃない。社会秩序が続く限り、この道が最も合理的だ。今は勉強に集中するべきだ。
カランカラン。
入口のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
翼の声に続いて、二人の客が入ってくる。一人は五十代くらいの男性。グレーのスーツを着て、高級そうな革のブリーフケースを持っている。もう一人は――
二郷は思わず顔を上げた。
長い黒髪のストレートヘア。琥珀色の瞳。赤いカーディガンに黒いタンクトップ、黒いパンツ。スタイルの良い体型に、洗練された雰囲気を纏った女性。
年齢は二郷と同じくらいだろうか。いや、もう少し上かもしれない。だが、その佇まいには年齢を超えた何かがあった。
「奥の個室、使えますか?」
女性が翼に尋ねる。声は落ち着いていて、どこか有無を言わせない響きがあった。
「はい、どうぞ」
翼が個室へ案内する。スーツの男性が先に入り、女性がその後に続く。個室のドアが閉まる直前、女性の視線が一瞬だけ二郷に向けられた。
琥珀色の瞳が、二郷を射抜く。
一瞬、見透かされたような感覚。二郷は内心で警戒レベルを上げた。――この人、ただ者じゃない。
ドアが閉まる。
二郷は息を吐いた。何だったんだ、今の感覚は。まるで、自分の内側を全て見透かされたような――
「二郷、大丈夫?」
翼がカウンターに戻ってきて、心配そうに覗き込んでくる。
「あ、はい。ちょっとぼーっとしてました」
「疲れてんじゃない? 無理すんなよ」
「大丈夫です」
二郷は笑顔を作った。翼は少し眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
個室からは、低い話し声が漏れ聞こえてくる。商談だろうか。あの女性は、一体何者なんだろう。
二郷は再び参考書に目を落とした。集中しようとしたが、文字が頭に入ってこない。
三十分ほど経った頃、個室のドアが開いた。
スーツの男性が先に出てきて、満足そうな表情で店を出ていく。続いて、女性が現れた。
「ごちそうさまでした」
女性が翼に会釈する。そして、カウンター席の二郷の隣に腰を下ろした。
「コーヒー、ブラックで」
「かしこまりました」
翼がコーヒーを淹れ始める。女性は二郷の方を向いた。
「勉強、頑張ってるね」
「あ、はい……」
二郷は戸惑いながら答えた。見知らぬ人に話しかけられることに慣れていない。
「受験生?」
「そうです」
「どこ目指してるの?」
「国立の……法学部です」
「へえ。公務員になりたいとか?」
二郷は驚いて女性を見た。なぜ分かったんだろう。
「顔に書いてあるよ。『安定した人生を送りたい』って」
女性は微笑んだ。その笑みには、どこか皮肉めいたものが混じっていた。
「私も昔は、そういう道を夢見てたな。普通の人生、普通の幸せ。でも、結局そうはならなかった」
「……どうしてですか?」
「色々あってね。でも、その『色々』があったから、今の私がいる。あなたも、そういう『色々』を避けてちゃ、本当の自分には出会えないと思うよ」 女性は意味深く微笑んだ。
女性は曖昧に答えた。翼がコーヒーを運んでくる。
「ありがとう」
女性はカップを手に取り、一口飲んだ。
「美味しい。ここのコーヒー、好きなんだ」
「よく来られるんですか?」
二郷が尋ねると、女性は首を横に振った。
「たまにね。商談で使わせてもらってる」
「商談……」
「うん。まあ、色々とね」
女性は詳しくは語らなかった。二郷は、それ以上聞くのは失礼だと思い、黙った。
「あなた、名前は?」
「氷室です。氷室二郷」
「二郷くん。いい名前だね」
その時、翼が新しいコーヒーを持ってカウンターに近づいてきた。
「二郷、ちょっと悪いんだけど」
翼がコーヒーカップを置きながら言った。
「裏の倉庫でコーヒー豆の在庫確認してくれる? 今日中に発注しなきゃで。リストは倉庫の棚に貼ってあるから
「あ、はい。ちょっと行ってきます」

二郷は席を立ち、参考書を閉じて店の奥へ向かった。
二郷が離席した直後、女性は翼の方を向いた。
「……神代零。やはりお前か」
翼は低く呟いた。
「ご存知なのね、幻神翼」
二人は、互いの正体を知っていた。
翼はとの距離を詰めた。
「氷室に関わるな」
低い声で、翼が言った。
「関わる? ただ話しかけただけよ」
「お前の目的は分かってる。あいつを組織に引き入れるつもりだろう」
「それは、あなたたちも同じでしょう?」
零は動じなかった。むしろ、楽しんでいるような表情を浮かべている。

「政府の犬が、よく言うわ。あの子を監視して、『普通の人生』に誘導して。まるで檻に閉じ込めるみたいに」
「それが本人の望みだ」
「本当に?」
「あの子、本当は分かってるのよ。自分の力が、どれだけ特別か。でも、今は動く理由がないから様子を見てるだけ。賢い子よ」
「だから何だ」
「私は、その可能性を解放してあげたいの。あの子が本当に望む道を、自分で選べるように」
「お前の思想に染めるつもりだろう」
「あなたたちだって、同じことをしてるじゃない」
零の言葉に、翼は黙った。
「...」
「氷室は、普通の人生を望んでいる。それを尊重するべきだ」
「尊重? それとも、利用?」
「あなた、本当に彼のことを思ってるの? それとも、ただの任務?」
翼は答えられなかった。
零は微笑んだ。
「面白いわね。あなたも、揺れてるのね」
「……何が言いたい」
「勝負しましょう」
零が提案した。

「氷室二郷が、最終的にどちらを選ぶか。あなたたちの『安定』か、私たちの『自由』か」
「勝負だと?」
「ええ。私は彼に、別の選択肢があることを示す。あなたは、彼を今の道に留める。そして、最後に彼自身が決める」
翼は零を睨んだ。
「お前、本気か」
「もちろん。私は、彼の可能性を信じてるから」
零の琥珀色の瞳が、揺るぎない意志を映していた。
翼は、しばらく考えた。
この勝負を受けるべきか。それとも、零を今ここで排除するべきか。
だが、零は犯罪者ではない。表立って手を出せば、逆に問題になる。
そして――翼自身も、どこかで疑問を抱いていた。
本当に、二郷を「普通の人生」に閉じ込めていいのか。
「……いいだろう」
翼は答えた。
「ただし、暴力的な手段は使うな」
「当然よ。私は、彼の意志を尊重する」
零は満足そうに頷き、席を立った。
レジへ向かうことなく、黒い財布から一万円札を一枚取り出すと、カウンターの上に置いた。
「じゃあ、楽しみにしてるわ」
零が背を向けて歩き出した瞬間――
「待て」
翼の低い声が、零の足を止めた。
零は振り返り、警戒した目で翼を見る。琥珀色の瞳が細められる。
「……何?」
「うち、キャッシュレスのみなんで」
翼の声は、あくまで平坦だった。だが、その赤い瞳には挑発的な光が宿っている。
零は一瞬、信じられないという表情を浮かべた。それから、小さく息を吐いた。
「……そう」
明らかに不満そうな声色。零はカウンターに戻り、置いた紙幣を乱暴に掴み取った。財布にしまい込む動作も、普段の洗練された動きとは違う。
スマートフォンを取り出し、画面を翼に向ける。決済音が鳴った。
「これでいいのね」
「ありがとうございました」
翼は、いつもの店員の笑顔で答えた。だが、その目は笑っていなかった。
零も、冷たく微笑み返す。
「次は現金、受け取ってもらうわ」
「それは、店のルールなんで」
「ルール、ね、フッ!」
零は踵を返し、今度こそ店を出ていった。ドアベルが、やや強く鳴る。
翼は深く息を吐き、カウンターに戻った。エスプレッソマシンの掃除を始める。手を動かしていないと、落ち着かなかった。
しばらくして、倉庫のドアが開く音がした。二郷が戻ってくる。
「在庫、確認しました。リストに書いておきました」
「おお、助かる。ありがとな」
「あれ、さっきの人は?」
「ああ、帰ったよ」
「そうですか……」
二郷はカウンター席に戻り、再び参考書を開いた。なぜか、少しだけ残念な気持ちがした。
翼は、その横顔を見つめた。
――お前は、どちらを選ぶんだろうな。
心の中で、翼は呟いた。
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氷室二郷