氷室二郷
幻神翼
主人公を「普通の安定した人生」へ導く監視役
氷室美咲
主人公の心の支えとなる存在
放課後の教室に、チョークの粉が舞っていた。
「氷室、お前マジで東大狙ってんの?」
クラスメイトの声に、二郷は参考書から顔を上げた。窓際の席で、いつものように数学の問題集を解いていた彼の周りには、すでに数人の友人が集まっている。
「まあ、第一志望だけど」
「すげーな。俺なんか推薦で決まったから、もう遊びまくりだわ」
「いいなあ。氷室も推薦取れたんじゃないの? 成績優秀だし」
二郷は苦笑して首を振った。「うちの親、推薦は認めないタイプでさ。一般入試で正々堂々って」
「マジか。厳しいな」
友人たちの会話が弾む中、二郷は再び問題集に目を落とした。微分方程式の問題。ペンを走らせながら、彼の表情は穏やかだった。
「あ、そうだ。今度カラオケ行かない? 受験前最後の息抜きってことで」
「いいね! 氷室も来いよ」
「ごめん、バイトあるんだ」
「またカフェ? お前ホント真面目だよな」
真面目。その言葉を聞いて、二郷の口元がわずかに緩んだ。そう見えているなら、それでいい。
教室を出て、昇降口に向かう廊下。夕日が差し込む窓の外では、部活動に励む生徒たちの声が響いている。二郷は自分のスマートフォンを取り出し、SNSのタイムラインを開いた。
【速報】また異能力犯罪 商店街で強盗事件
炎を操る能力者が3店舗を襲撃、現金奪い逃走中
負傷者5名 #異能力犯罪 #緊急
投稿の下には、コメントが溢れている。
これだから能力者は…
能力者全員登録制にしろよ
神山議員の言う通りじゃん
また能力者か。もううんざり
二郷は親指でスクロールし、画面を閉じた。
「くだらない」
誰にも聞こえない声で、二郷は呟いた。
能力を使って一般人から金を奪う。そんな小さなことのために、能力者全体の立場を危うくする。バランスを崩す。秩序を乱す。
「商店街...まだ近くにいるな」
スマートフォンをポケットにしまい、二郷は校門を出た。足取りは速い。
放っておけば、また同じことが繰り返される。能力者への偏見が深まる。それだけは避けなければならない。
二郷の視線は、商店街の方角を捉えていた。
商店街を抜ける路地。人通りの少ない夕暮れ時。
二郷が角を曲がったとき、それは起きた。
「動くな!」
前方から、男が飛び出してきた。三十代半ば。目が血走っている。その手には、炎が揺らめいていた。
SNSで見た顔だった。商店街の強盗犯。まだ捕まっていなかったらしい。
二郷の背後で、悲鳴が上がった。通りかかった主婦が、腰を抜かして座り込んでいる。
「お前もだ! 財布! 携帯!」
男の手の炎が大きくなる。熱気が二郷の頬を撫でた。
「……そう」
二郷は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、指を鳴らした。
世界が、止まった。
パチン
世界が、止まった。
炎は空中で静止し、男の表情は恐怖と興奮が混ざったまま固まっている。背後の主婦も、口を開けたまま動かない。風も、音も、光の粒子さえも、すべてが凍りついた。
二郷だけが、その世界で動いていた。

「能力者が一般人を襲う」
彼は男に近づいた。靴音すら立たない、完全な静寂の中で。
「それも、こんな小さな金のために」
男の顔を覗き込む。恐怖に歪んだ目。震える唇。
「お前みたいなのがいるから、俺たちが面倒なことになる」
二郷の瞳に、感情の色はなかった。冷たく、透明で、まるでガラス玉のような目。
「消えて」
右手を軽く振る。
男の体が、音もなく崩れ落ちた。いや、崩れたのではない。存在そのものが、粒子レベルで分解され、空気に溶けていった。炎も、服も、すべて。
跡形もなく。
再び指を鳴らす。
世界が動き出した。
「きゃあ!」
主婦の悲鳴が、遅れて響く。しかし彼女の目の前には、もう誰もいない。
「あれ……? さっき、男の人が……」
二郷は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか? 何かありました?」
「え、あの、男の人が、炎を……」
「炎?」
二郷は周囲を見回す仕草をした。「誰もいませんけど……疲れてるんじゃないですか?」
主婦は混乱した表情で立ち上がり、何度も周囲を見回してから、小走りに去っていった。
二郷は再び歩き出した。
バイト先のカフェに着いたのは、予定通りの時刻だった。
「お疲れ様、二郷くん」
店長が笑顔で迎える。二郷はいつもの笑顔を返し、エプロンを身につけた。
「今日も混みそうだね」
「受験勉強、大丈夫? 無理しないでね」
「大丈夫です。むしろ、バイトしてる方が気分転換になるんで」
嘘ではない。カフェでの仕事は、二郷にとって心地よい日常だった。コーヒーを淹れ、客に笑顔を向け、代金を受け取る。シンプルで、予測可能で、安全な時間。
カウンターに立ち、注文を受ける。常連客が、受験の話を聞いてくる。
「頑張ってね、二郷くん。応援してるから」
「ありがとうございます」
窓の外では、パトカーのサイレンが遠ざかっていった。おそらく、あの路地に向かっているのだろう。何も見つからないだろうけど。
「二郷、ラテ二つ」
「はい」
エスプレッソマシンを操作しながら、二郷は鼻歌を口ずさんだ。

ミルクを泡立てる。適切な温度、適切な量。すべてをコントロールする。それは、彼にとって自然なことだった。
「お待たせしました」
カップを差し出す手は、微塵も震えていない。
店にあるテレビから ニュース速報の通知。
『商店街強盗犯、行方不明に 目撃者「突然消えた」』
二郷は呟いた。「へー、消えたんだね」
閉店時刻。最後の客を見送り、二郷は店内の掃除を始めた。
「お疲れ様、二郷くん。今日もありがとう」
翼が優しく声をかける。
「いえ、こちらこそ。あの、翼さん」
「ん?」
「最近また異能力犯罪が増えてるみたいですけど、怖くないですか?」
二郷の質問に、翼は一瞬だけ動きを止めた。そして、いつもの笑顔を浮かべる。
「そうだね。でも、政府も対策を強化してるみたいだし……僕らにできることは、普段通り生活することかな」
「そうですね」
二郷はモップを動かす手を止めずに答えた。「僕には関係ないかなって」
「……そうだね。気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした」
エプロンを外し、二郷は店を出た。
「お疲れ様」
翼が見送る。その表情は、穏やかだった。
二郷が角を曲がり、姿が見えなくなったのを確認してから、翼の表情が変わった。
「全員撤収。二郷は帰宅ルートに入った」
彼は小さなイヤホンに向かって囁いた。周囲の雑居ビルに配置されていた監視要員から、次々と応答が返ってくる。
「了解。対象、通常ルートを使用中」
「監視カメラ、異常なし」
「バイタル、安定。能力使用の兆候なし」
翼は深く息を吐き、店の「CLOSED」の札を裏返した。そして、レジの下から黒いジャケットを取り出して羽織る。
カフェの明かりを消し、裏口から出る。
夜の商店街は静かだった。翼は素早く歩き、三つ先のビルに入った。古びた雑居ビルで、一階は空き店舗。看板も出ていない。
エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。しかし、エレベーターは途中で止まり、隠しパネルが開いた。翼は虹彩認証をクリアし、さらに上の階へと昇っていく。
扉が開くと、そこは最新の監視設備に囲まれた部屋だった。
「お疲れ様です、幻神さん」
黒いスーツを着た部下たちが、一斉に敬礼する。
部屋の中央には、巨大なモニターが並んでいる。そのうちの一つに、二郷が自宅に向かって歩く姿が映し出されていた。複数のカメラからの映像、心拍数や体温を示すグラフ、位置情報の追跡マップ。
「状況は」
翼が冷たい声で尋ねる。先ほどまでのカフェ店長としての優しさは、微塵も残っていない。
「17時42分、商店街路地で能力使用の可能性が検出されました」
部下の一人が、タブレットを操作しながら報告する。
「詳細を」
「監視カメラに、強盗犯が突然消失する映像が記録されています。目撃者の証言と合わせて分析した結果、氷室二郷による時間停止能力の使用と判断しました」
モニターに、路地の映像が映し出される。炎を操る男が、一瞬で消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
翼の表情が険しくなる。
「また、か」
「はい。これで今月三件目です。すべて異能力犯罪者が標的でした」
別の部下が、ファイルを翼に手渡す。
「今日の標的、田中誠。異能力:炎の操作。過去に傷害罪で二度逮捕歴あり。今日の商店街強盗で指名手配中でした」
「結果は?」
「完全消失。痕跡なし。存在ごと消されたものと思われます」
翼はファイルをテーブルに置き、大きなモニターの前に立った。
「学業成績の最新データは」
「こちらです」
モニターに、二郷の成績表が表示される。
氷室二郷 - 学業成績推移 数学: 98点 (全国偏差値 78.2) 英語: 95点 (全国偏差値 76.8) 国語: 92点 (全国偏差値 74.5) 理科: 97点 (全国偏差値 77.9) 社会: 94点 (全国偏差値 75.3)
総合評価: A+ 東大合格可能性: 85.3% 精神状態: 安定 社交性: 良好 異常行動: なし 能力使用頻度: 月1-2回 (すべて犯罪者排除)
「相変わらず、完璧な"普通の受験生"を演じているな」
翼の声には、複雑な感情が滲んでいた。
「はい。クラスメイトとの関係も良好。教師からの評価も高い。カフェでの勤務態度も真面目で、常連客からも好評です」
翼は腕を組み、モニターに映る二郷の姿を見つめた。自宅に到着し、玄関のドアを開ける姿。妹の美咲が「お帰り、お兄ちゃん!」と笑顔で迎える姿。
「監視を継続。何かあったら、即座に報告」
「了解しました」
モニターの中で、二郷は妹と楽しそうに夕飯を食べている。笑顔で、普通の高校生として。
「氷室二郷、17歳。日本最強、いや、世界最強かもしれない異能力者」
モニターには、二郷の部屋の様子が映し出される。机に向かい、参考書を開く姿。ペンを走らせる姿。
モニターの光が、翼の赤い瞳を照らす。
その瞳に映るのは、何も知らずに勉強に励む二郷の姿だった。
彼の"普通"の日常は、巨大な監視網の上に成り立っていた。
そしてそれは、明日も、明後日も、続いていく。
彼が"特別"になることを選ぶ、その日まで。
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