朝日が差し込む窓辺で、桜井ひまりは大きなあくびをしながら伸びをした。
「ふわぁ〜、よく寝た!」
ベッドから飛び起きると、カレンダーに丸で囲まれた日付が目に入る。「今日は歯科検診の日だ!」
ひまりは鏡の前に立ち、にっこり笑顔を作る。生まれてこの方、一度も虫歯になったことがない彼女の歯は、今日も真っ白に輝いていた。
「ひまり!朝ごはんできたわよ!」
母の声に応えて、ひまりは階段を駆け下りた。ダイニングテーブルには、トースト、スクランブルエッグ、そして大好きなチョコレートスプレッドが用意されていた。
「いただきます!」
ひまりは美味しそうにトーストにチョコレートを塗り、一口かじった。
「ひまり、また甘いものばかり。虫歯になるよ」と弟が言う。
「大丈夫だよ!私、生まれてから一度も虫歯になったことないもん!」
ひまりは得意げに笑うと、残りのトーストをぺろりと平らげた。
春風が吹く通学路。ひまりは軽快なステップで歩いていた。
「ひまりちゃーん!」
後ろから聞こえる声に振り返ると、幼なじみの佐藤けんたが走ってきた。
「おはよう、けんた!」
「おはよう...」けんたは暗い表情で答えた。「今日、歯科検診だよね...」
「そうだね!私、楽しみ!」
けんたは顔をしかめた。「楽しみなわけないよ...。僕、昨日から奥歯が痛くて...。絶対虫歯だよ...」
「大丈夫だよ!早めに治せば痛くないって」
「でも、ドリルの音とか...考えただけで怖いよ」
ひまりはけんたの肩をポンと叩いた。「私が一緒にいるから大丈夫!」
そのとき、二人の前に山田みどりが現れた。いつも完璧な制服姿と真っ直ぐな姿勢が特徴の優等生だ。
「おはよう、桜井さん、佐藤くん」みどりは冷静に挨拶した。
「みどりちゃん、おはよう!今日の検診、緊張する?」ひまりは明るく尋ねた。
みどりは少し顔を強張らせた。「別に。私は毎日きちんと歯を磨いているから」
「さすがみどりちゃん!でも私も負けてないよ。生まれてから虫歯ゼロ記録継続中!」
みどりの目が一瞬鋭くなった。「...そう」
三人は学校に向かって歩き始めた。けんたは不安そうに、みどりは何か考え込むように、そしてひまりは相変わらず明るく前を向いていた。
教室では、歯科検診を前に緊張感が漂っていた。
「みんな、今日は歯科検診です。順番に保健室に行きましょう」鈴木先生が穏やかな声で告げた。
「はーい!」クラスの子どもたちが返事をする中、けんたは机に突っ伏していた。
「けんた、大丈夫?」ひまりが心配そうに声をかける。
「ぜんぜん大丈夫じゃない...。歯が痛くて眠れなかったんだ...」
「そんなに痛いの?見せて」
けんたが恐る恐る口を開けると、奥歯が少し黒ずんでいるのが見えた。
「うわぁ...」ひまりは思わず声を上げた。
その瞬間だった。
「むしばちゃんがいるよ!」
ひまりの耳元で、聞いたことのない声がした。驚いて周りを見回すと、机の上に小さな光の玉が浮かんでいた。
「え?誰?」
「僕はもぐもぐ!歯の妖精だよ」
光の玉が話している。ひまりは目を疑った。
「歯の...妖精?」
「そう!君には特別な力があるんだ。虫歯を治す力!」
「え?私に?」
もぐもぐは光を放ちながら続けた。「君が生まれてから虫歯にならなかったのは、その特別な力のおかげ。今、友達が困っているでしょ?力を使ってあげたら?」
ひまりは半信半疑だったが、痛そうなけんたの顔を見て決心した。
「どうすればいいの?」
「友達の口に向かって、『むしばゼロ!ハッピースマイル!』って言いながら息を吹きかけるんだ」
「そんな...恥ずかしい...」
けんたが痛みで顔をゆがめるのを見て、ひまりは勇気を出した。
「けんた、ちょっと試してみていい?」
「何を...?」
「いいから、口を開けて」
けんたが恐る恐る口を開けると、ひまりは深呼吸をして、
「むしばゼロ!ハッピースマイル!」
と言いながら、けんたの口に向かって息を吹きかけた。
すると驚くべきことに、けんたの黒ずんでいた歯が淡い光に包まれ、みるみるうちに白く健康的な色に戻っていった。
「え...?痛みが...消えた?」けんたは信じられない表情で言った。
「本当に?」
「うん!嘘みたいに痛くない!ひまり、何したの?」
ひまりは自分でも信じられず、もぐもぐを見た。もぐもぐはにっこり笑っている。
「言った通りでしょ?君には特別な力があるんだ」
保健室での歯科検診。けんたの番が来た。
「佐藤くん、口を開けてごらん」学校歯科医の先生が言う。
けんたは恐る恐る口を開けた。
「ふむ...虫歯はないね。きれいな歯だ」
「え?」けんたは驚いた。「でも昨日まで痛かったんです...」
「痛みは気のせいだったのかな?とにかく、よく磨けていますよ」
検診を終えたけんたは、廊下で待っていたひまりに駆け寄った。
「ひまり!本当に虫歯がなくなってた!君、何か魔法使いなの?」
ひまりは照れくさそうに笑った。「私にも分からないけど...」
そのとき、みどりが検診から戻ってきた。いつもの自信に満ちた表情ではなく、少し落ち込んでいるように見えた。
「みどりちゃん、どうだった?」ひまりが尋ねる。
「...2本、虫歯があるって」みどりは小さな声で答えた。「私、毎日ちゃんと磨いているのに...」
ひまりはもぐもぐを見た。もぐもぐはコクリとうなずいている。
「みどりちゃん...もし良かったら、私が何かできるかも」
「何が?」みどりは怪訝な表情を浮かべた。
「ちょっと変かもしれないけど...口を開けてくれる?」
みどりは周りを見回し、誰も見ていないことを確認すると、恥ずかしそうに口を開けた。
ひまりは再び「むしばゼロ!ハッピースマイル!」と唱え、息を吹きかけた。
みどりの歯も光に包まれ、虫歯の部分が徐々に健康な色に戻っていった。
「何これ...?」みどりは鏡で自分の歯を確認し、驚きの声を上げた。
「信じられない...どうやったの?」
「実は私にも分からないんだ。でも、みどりちゃんの役に立てて嬉しい!」
みどりは珍しく素直な表情でひまりを見た。「ありがとう、桜井さん...」
その日の放課後、ひまりの噂は学校中に広まっていた。
「ひまりちゃんが虫歯を治してくれるんだって!」 「本当?魔法みたいだね!」 「私も治してほしい!」
次々と友達が虫歯を治してほしいとひまりのもとにやってきた。ひまりは皆を笑顔にしたいという思いから、一人一人に「むしばゼロ!ハッピースマイル!」の力を使った。
しかし、10人目を治し終わったとき、ひまりは急に目の前が暗くなるような感覚に襲われた。
「ひまりちゃん、大丈夫?」けんたが心配そうに声をかける。
「う、うん...ちょっと疲れただけ...」
もぐもぐがひまりの耳元で囁いた。「力の使いすぎだよ。君の体に負担がかかっているんだ」
「でも、みんなを助けたいよ...」
「無理は禁物。君の力には限界があるんだ」
その夜、ひまりは自分の歯を磨きながら、鏡に映る自分の歯を見て驚いた。いつもは真っ白だった前歯に、小さな黒い点が見えたのだ。
「これって...虫歯?」
もぐもぐが現れ、心配そうに言った。「やっぱり...。君が他の人の虫歯を治すとき、その虫歯の一部を自分に引き受けているんだ」
「そうだったの...?」
「だから無理はしないで。君の力は素晴らしいけど、限界もあるんだよ」
ひまりはベッドに横になりながら考えた。「でも、みんなを助けたい...。どうすればいいんだろう」
翌日、学校に着くとすぐに、けんたとみどりがひまりを待ち構えていた。
「ひまり、大丈夫?昨日は疲れてたみたいだけど」けんたが心配そうに尋ねる。
「うん、ちょっと休んだら元気になったよ!」ひまりは笑顔で答えたが、実は前歯の痛みを感じていた。
「桜井さん...」みどりが珍しく遠慮がちに声をかけた。「昨日は本当にありがとう。でも、無理しないでね」
「みどりちゃん...」
そのとき、校内放送が鳴った。
「本日、午後から追加の歯科検診を行います。昨日の検診で虫歯があると診断された生徒は、再度検診を受けてください」
教室では、鈴木先生が首をかしげていた。
「不思議ですね。昨日虫歯があった子たちが、今日になって虫歯がなくなっているという報告が...」
クラスの子どもたちは、ひまりの方をチラチラ見ている。
授業中、ひまりは前歯の痛みが強くなり、顔をゆがめた。
「ひまりさん、具合が悪いの?」鈴木先生が心配そうに声をかけた。
「だ、大丈夫です...」
しかし、給食の時間になると、ひまりはパンを噛むことさえ痛くて、ほとんど食べられなかった。
「ひまり、本当に大丈夫?」けんたが心配そうに尋ねる。
「実は...歯が痛くて...」
「え?ひまりが虫歯?」
みどりが近づいてきた。「桜井さん、もしかして私たちの虫歯を治したせいで...?」
ひまりは弱々しく笑った。「大丈夫だよ。みんなが笑顔になれば、それでいいんだ」
けんたとみどりは顔を見合わせた。
「そんなの嫌だよ!」けんたが声を上げた。「ひまりが苦しむなら、僕は虫歯のままでいいよ」
「私も...」みどりも珍しく感情的な声で言った。「桜井さんの笑顔が見られないなら、意味がない」
その言葉を聞いて、もぐもぐが光り輝いた。
「そうだ!みんなの気持ちが大事なんだ!」
「もぐもぐ?」
「ひまり、君の本当の力は虫歯を治すことじゃない。みんなに歯の大切さを教え、笑顔にすることなんだ!」
ひまりは考え込んだ。「みんなに歯の大切さを...」
放課後、ひまりはけんたとみどりを誘って、鈴木先生の職員室を訪ねた。
「先生、お願いがあります」
「何かな、ひまりさん?」
「来週の学級活動の時間に、歯の健康について発表したいんです」
鈴木先生は驚いた表情を見せた後、優しく微笑んだ。
「それはいい考えだね。どんな発表をするつもりかな?」
「けんたくんとみどりちゃんと一緒に、正しい歯磨きの方法や、虫歯にならないための食生活について調べて、みんなに教えたいんです」
「素晴らしいアイデアだね!ぜひやってみよう」
三人は放課後、図書室で資料を集め、発表の準備を始めた。
「ひまり、本当に大丈夫?歯、痛くない?」けんたが心配そうに尋ねる。
「うん、なんだか痛みが少なくなってきたよ」
実際、みんなで協力して準備を進めるうちに、ひまりの歯の痛みは徐々に和らいでいった。
「不思議だね」もぐもぐが囁いた。「みんなの気持ちが集まると、君の力が本来の形で発揮されるみたい」
一週間後、学級活動の時間。ひまり、けんた、みどりの三人は教室の前に立っていた。
「今日は『むしばゼロ大作戦』について発表します!」ひまりが元気よく言った。
三人は、大きな歯の模型を使って正しい歯磨きの方法を実演し、虫歯になりやすい食べ物と虫歯予防に良い食べ物のクイズを出題した。
「虫歯菌は宇宙からやってきた侵略者みたいなもの!」けんたが熱く語る。「でも僕たちには武器がある。それは歯ブラシと正しい知識だ!」
「毎日の小さな習慣が、将来の大きな健康につながります」みどりが冷静に説明した。「私も最近、改めて歯磨きの大切さを学びました」
クラスメイトたちは興味津々で聞き入り、質問も次々と出た。
発表の最後、ひまりは笑顔で言った。
「みんなで協力して、むしばゼロの笑顔を守りましょう!」
「むしばゼロ!ハッピースマイル!」三人が声を合わせると、クラス全員が一緒に声を上げた。
その瞬間、教室全体が淡い光に包まれたように感じたのは、ひまりだけだったかもしれない。
放課後、ひまりは校庭のベンチで休んでいた。もぐもぐが光の玉となって現れた。
「ひまり、素晴らしかったよ!」
「もぐもぐ、私の歯の痛みがすっかり消えたよ」
「それが君の本当の力なんだ。虫歯を直接治すんじゃなく、みんなに歯の大切さを教え、笑顔にすること」
「そっか...」ひまりは空を見上げた。「でも、もぐもぐはこれからどうするの?」
「僕の役目はひとまず終わったかな。君が自分の力に気づいたから」
「また会える?」
「もちろん!君がみんなを笑顔にするたび、僕はそばにいるよ」
そのとき、けんたとみどりが走ってきた。
「ひまり!今日の発表、大成功だったね!」けんたが嬉しそうに言った。
「桜井さん...いえ、ひまり」みどりが少し照れながら言った。「これからも一緒に活動していきましょう」
「うん!」ひまりは二人に笑顔を向けた。「これからは三人で『むしばゼロ!ハッピーチーム』だね!」
三人が笑い合う中、もぐもぐの姿はゆっくりと透明になっていった。でも、ひまりには分かっていた。これからも自分の周りには、見えない友達がいてくれること。そして、自分の本当の力は、みんなを笑顔にすることなのだと。
「むしばゼロ!ハッピースマイル!」
ひまりの明るい声が、春の風に乗って広がっていった。
(おわり)
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