朝の教室は、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
「氷室くん、おはよう!」
教室に入るなり、佐倉美咲の明るい声が飛んできた。クラス委員を務める彼女は、いつも早めに登校している。
「おはよう、佐倉さん」
氷室二郷は淡々とした表情で挨拶を返した。感情を表に出さないよう心がけている。目立たないこと。普通であること。それが彼の生きる指針だった。
美咲は少し周囲を見回すと、声を潜めて言った。 「昨日の件、大丈夫だった?」
二郷は一瞬固まった。昨日、彼が人気のない校舎裏で能力を使っているところを美咲に見られてしまったのだ。
「あ、ああ...」
「誰にも言わないから安心して」美咲は優しく微笑んだ。「私、前から思ってたんだ。氷室くんには何か特別なものがあるって」
二郷は言葉に詰まった。中学時代のトラウマが蘇る。「怪物」と呼ばれた日々。
「今日の放課後、図書委員の仕事手伝ってくれない?新しい本の整理があって...その後、ちょっと話したいこともあるんだ」
美咲は少し真剣な表情を浮かべている。
「悪いけど、今日はバイトがあるんだ」
「そっか...残念。じゃあまた今度ね」
美咲は少し残念そうにしながらも、すぐに笑顔を取り戻した。しかし、その目には「逃げないで」という思いが見えた。
教室の窓から差し込む朝日が、二郷のデスクを照らしている。彼は静かに参考書を開き、朝の自習時間を有効活用し始めた。名門大学を目指す彼にとって、一分一秒も無駄にはできない。しかし、美咲の言葉が頭から離れなかった。
「氷室、お前マジで東大狙ってんの?」
昼休み、クラスメイトの田中が二郷の机に寄ってきた。
「ああ、まあ」
二郷は曖昧に答える。目標を大きく語ることは、目立つことにつながる。
「すげーな。俺なんか地元の私大でいいやって思ってるよ」
田中が笑いながら言うと、隣にいた佐倉美咲が口を挟んだ。
「氷室くんなら行けると思うよ。いつも真面目に勉強してるもん」
美咲の言葉に、二郷は少し照れくさそうに視線を逸らした。彼女の視線には、昨日の出来事を思い出させるものがあった。
「佐倉さんこそ、医学部目指してるんだろ?大変だな」
「うん...まあね」
美咲の表情が一瞬曇ったように見えた。しかし、すぐに彼女はいつもの笑顔を取り戻した。
「でも、私はまだ本当にやりたいことを探してる途中かも。親は医者になってほしいみたいだけど...」
その言葉に、二郷は少し驚いた。医者の家に生まれ、将来も医者になることが決まっていると思っていたからだ。
「そうなのか」
「うん。氷室くんは?将来の夢とか、あるの?」
その質問に、二郷は一瞬言葉に詰まった。
「普通に...安定した仕事に就いて、普通の生活を送りたいだけだよ」
「普通って何だろうね」美咲は不思議そうに首を傾げた。そして小さな声で付け加えた。「自分らしく生きることが、一番『普通』なんじゃないかな」
その言葉が、二郷の胸に刺さった。自分らしく生きるとは、能力を隠さずに生きることなのか。彼は母親の顔を思い浮かべた。
母は二郷が能力に目覚めた日から、ずっと彼を守ってきた。看護師として夜勤や残業を繰り返し、一人で二郷を育てている。父は二郷が幼い頃に他界し、以来母は女手一つで家計を支えていた。
「普通に生きなさい」——それは母の口癖だった。息子の特殊性を知りながら、それでも普通の子供として育てようと必死だった母の姿が、二郷の脳裏に浮かぶ。
放課後、二郷はいつものようにコンビニでのバイトを終え、カバンを肩にかけた。
「お疲れ様、氷室くん」
店長が声をかけてきた。
「お疲れ様です。それじゃ、失礼します」
二郷は丁寧に頭を下げ、コンビニを後にした。外は既に夕暮れで、街灯が点き始めていた。
スマホを取り出すと、母からのメッセージが届いていた。 『今日も遅くなるから、冷蔵庫の食事を温めて食べてね。明日の朝も早いから、先に寝てるわ。愛してる』
二郷はため息をついた。母は今週、夜勤が続いている。朝帰ってきてすぐに仮眠を取り、午後からまた病院へ。そんな日々が続いていた。
先月、母の給料明細を偶然見てしまった。手取りは決して多くない。それでも母は「二郷の塾代は削らない」と言い張っていた。自分の服は何年も同じものを着回し、美容院にも半年に一度しか行かない。全ては二郷のためだった。
彼は近くの喫茶店「カフェ・アルカディア」に向かった。ここは彼のお気に入りの場所だ。静かで落ち着いた雰囲気で、勉強するのに最適だった。
「いらっしゃいませ」
入店すると、いつもの店員・幻神翼が出迎えてくれた。
「あ、氷室か。いつもの席空いてるよ」
「ありがとう」
二郷は窓際の席に座り、参考書を広げた。翼は大学生のアルバイトで、同じ受験生だった経験から、時々勉強のアドバイスをくれる。
「今日も勉強か。真面目だな」
コーヒーを運んできた翼が声をかけてきた。
「東大目指すなら当然だろ」
「そうだな。俺も現役の時は必死だったよ」
翼は微笑んだ。彼は名門大学に現役合格した過去を持つ。二郷にとっては良き先輩的存在だった。
「今日は早めに上がるんだ。代わりの子が来るから」
翼はそう言って、厨房へ戻っていった。
二郷は黙々と勉強を続けた。微分方程式の問題を解きながら、彼は時折窓の外を見つめた。普通の高校生。それが彼の望みだった。
しかし、彼は「普通」ではなかった。
中学2年の時、彼は初めて自分の能力に気づいた。原子を止める能力—物質を凍結させることができるのだ。友人の前でペットボトルの水を凍らせてしまい、「怪物」と呼ばれるようになった。それ以来、彼は能力を隠し、目立たないよう生きてきた。
「ふぅ...」
大きなため息が聞こえた。二郷が顔を上げると、隣のテーブルで女性が漫画を読んでいた。20代半ばくらいに見える。艶のある黒髪のロングヘアで、顔立ちは整っている。ただ、服装はゆったりとしたオーバーサイズのパーカーにスウェットパンツという、明らかに部屋着のような格好だった。足元はスリッパで、ちらりと見える足の爪には黒いネイルが塗られている。テーブルには分厚い少年漫画が積まれている。
女性は漫画から顔を上げ、偶然二郷と目が合った。
「あ...」
女性は少し恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね、つい大きな声出しちゃった。この漫画、めちゃくちゃ面白くて」
「いえ...」
二郷は視線を参考書に戻そうとしたが、女性は話しかけてきた。
「高校生?勉強大変そうだね」
「まあ...受験生なので」
「えらいなぁ。私なんて高校の時、全然勉強しなかったよ」
女性は屈託のない笑顔を浮かべた。近くで見ると、整った顔立ちがより際立って見えた。
「あ、私、霧島零っていうの。この辺りで...えーっと、フリーランスの仕事してる」
最後の部分が少し怪しげだったが、二郷は深く突っ込まなかった。
「氷室二郷です」
「氷室くん、ね」
零は手元の漫画を指差した。
「これ、読んだことある?『鋼の錬金術師』」
「名前は知ってますけど...」
「すっごく面白いよ!人間の可能性について考えさせられるっていうか...」
零の目が輝いた。純粋に漫画を楽しんでいる様子だった。
「錬金術師たちが、等価交換の原則に従って物質を変換する話なんだけど、その中で人間とは何か、力とは何かってテーマが...」
彼女は熱心に語り始めた。二郷は勉強の手を止め、その話に耳を傾けた。
「主人公たちは禁忌を犯して、大きな代償を払うんだ。でも、それでも前に進もうとする。その姿が...なんていうか、人間らしくて好きなんだよね」
「代償...ですか」
二郷は呟いた。能力を使うことの代償。それは彼にとって、普通の生活を失うことだった。
「そう!力には必ず代償がある。でも、それを恐れていたら何も変えられない」
零は漫画のページをめくりながら言った。
「あ、ごめん。つい熱くなっちゃった。勉強の邪魔しちゃってるよね」
「いえ、大丈夫です」
二郷は意外にも、この会話を楽しんでいる自分に気づいた。
「氷室くんは漫画とか読む?」
「たまに...」
「おすすめある?」
「えっと...」
二郷は考え込んだ。最近は勉強ばかりで、漫画を読む余裕もなかった。
「そっか、受験生は大変だよね」
零は理解したように頷いた。
「あ、そうだ!」
彼女は突然思いついたように言った。
「今日のコーヒー、私が奢るよ。勉強頑張ってる高校生への応援ってことで」
「え?いや、それは...」
「いいから、いいから。大人の特権だよ」
零は笑いながら店員を呼んだ。
「すみません、こちらの学生さんのコーヒー代、私のお会計に入れてください」
「かしこまりました」
店員が去った後、二郷は戸惑いながら言った。
「ありがとうございます...でも、なんで?」
「うーん、なんでだろう」
零は首を傾げた。
「なんか、氷室くんを見てたら、昔の自分を思い出したっていうか。必死に頑張ってる姿が、いいなって思って」
彼女の言葉には嘘がなかった。純粋な善意からの行動のようだった。
「それに、一人でマンガ読んでるより、誰かと話してる方が楽しいし」
零は少し寂しそうに笑った。
「友達とかいないんですか?」
「んー、仕事が忙しくて。最近はマンガが友達かな」
彼女は冗談めかして言ったが、その目には一瞬、孤独の影が過ぎった。
二人はその後も、漫画の話で盛り上がった。零は様々な作品について語り、二郷も時折質問を挟んだ。勉強は進まなかったが、久しぶりに楽しい時間を過ごした。
「あ、もうこんな時間」
零は時計を見て慌てた。
「明日も仕事だから、そろそろ帰らなきゃ」
彼女はマンガを片付けた。
「今日は楽しかった。ありがとう、氷室くん」
「こちらこそ...コーヒーもありがとうございました」
「気にしないで。また会えたらいいね」
零は笑顔で手を振り、店を出ていった。普通の、どこにでもいるOLのように見えた。
「お、まだいたのか」
翼が私服姿で二郷の席に近づいてきた。バイトが終わったようだ。
「ああ、もう少しで帰るよ」
「さっきの人、知り合い?」
「いや、たまたま話しかけられただけ」
二郷は正直に答えた。
「そうか」
翼は少し安心したような表情を見せた。
「変な人じゃなかったか?」
「普通の人だったよ。マンガが好きな」
「それならいいけど」
翼は肩をすくめた。
「最近、この辺りで妙な噂があってさ。能力者を探してる組織があるとか」
二郷は内心でドキリとした。
「能力者?」
「ああ。まあ、都市伝説みたいなもんだろうけど」
翼は軽く言ったが、その目は真剣だった。
「気をつけろよ。変な奴に絡まれたら、すぐに逃げるんだぞ」
「ああ...分かった」
翼は頷いて、店を出ていった。
二郷は窓の外を見つめた。夜の街は、いつもと変わらない日常の光景だった。
彼はコーヒーカップに触れた。指先から微かな冷気が漏れ、カップの表面に霜が付き始める。すぐに彼は手を引っ込めた。
「普通の生活...か」
彼は呟いた。
母の苦労を思えば、自分も普通に生きなければならない。東大に入り、良い会社に就職し、母を楽にさせたい。それが彼の目標だった。
携帯が震えた。母からのメッセージだった。
『夜食用のおにぎり、冷蔵庫に入れておいたから。無理しないでね』
二郷は微笑んだ。どんなに疲れていても、母は彼のことを気にかけてくれる。
彼は荷物をまとめ、店を出た。家に帰れば、母の作ったおにぎりが待っている。それが彼の日常だった。大切な、守るべき日常だった。
しかし、その日常は少しずつ、確実に変わり始めていた。美咲は彼の秘密を知り、翼は能力者の噂を口にし、そして霧島零という不思議な女性と出会った。
すべては偶然のように見えた。しかし、運命の歯車は既に回り始めていた。
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