司早 百々
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
朝の礼拝堂から遠く鐘の音が聞こえてきた頃、百々はすでに制服の袖口に呪符用の墨線を引き終えていた。
窓の外、桜の花びらが演習区画のほうへ流れていく。王立学園都市アカデミアの空気は地方の孤児寮とは違う。石畳の冷たさも、廊下を歩く生徒たちの足音の密度も、何もかもが少しずつ異質だった。ここに来て三日。百々はまだ、自分がこの場所に根を下ろしたとは感じられずにいた。
「百々ー! 今日の実技、もう時間割確認した? 午後から術式展開の採点があるんだけど!」
美緒が寮の廊下を走りながら声をかけてくる。頭の栗色のボブが風を受けてはねた。
「確認しました。第三演習場、三限目ですよね」
「そうそう! ――ところで、朝ご飯まだでしょ、急がないと食堂の魚定食なくなるよ」
「……魚定食」
「百々って絶対そういうとこ大事にしそうだと思って」
正解だった。百々は小さく息を吐いて、鞄を手に取った。
食堂の席についたのは登校前の慌ただしい時間帯で、長机には見知らぬ生徒たちがひしめいている。百々がトレーを持って立ち止まった瞬間、隣の席の女子二人がこちらをちらりと見て、視線をそらした。
その「そらし方」が、百々の皮膚に小さく刺さった。
「ねえ、あっちに空いてるとこあるよ」
美緒が気にした様子もなく手を引く。百々は頷いて、そちらへ向かいながら心術特有の感覚を静かに手放した。感情のノイズを拾いすぎると自分まで溺れてしまう。その痛みを、数年かけて体で覚えた。
「転入生って最初はこんなもんだって。気にしないほうがいいよ」
美緒はそう言いながら魚に箸をつけた。さりげなさすぎて、かえって百々の胸に届いた。
「……美緒さんは、気になりませんか」
「んー? ああ、順位表のこと?」
百々の目線を追って、美緒が食堂の入口わきの掲示板へ顎をしゃくった。
壁に貼り出された白い紙。上から順に名前が並んでいる。「高等魔法大系科魔術組 前期実技試験 総合順位」と印刷された見出しの下、一位には「朝比奈蒼」の名前が揺れもせず鎮座していた。
「あの順位表、毎月更新されるんですか」
「毎月。成績評価、実技採点、あとは創作魔術の発表審査もポイントになる。ここ、外部からどれだけ優秀に見えるかが大事な学校だから」
美緒が淡々と解説する口調は、どこか暗記した辞典を読み上げているようだった。
「一位から十位は『上席修士候補』って呼ばれて、研究区画の特別設備が使い放題になる。十一位から三十位は普通。それ以下は……」
「それ以下は?」
美緒が少し間を置いた。
「補習魔術組への降格を勧告される、って聞いたことある。実際に降格した先輩がいて、そのあとこのクラスには戻ってきてないらしいよ」
百々は箸を持ったまま、掲示板の下のほうを見た。末尾に近い番号の横に小さく印がついていた。名前は読み取れなかったが、その印が何を意味するかは、わざわざ聞くまでもない気がした。
「で、百々は今どのあたりに入る予定なの」
「……まだ奨学生の暫定期間中ですから。正式な順位対象かどうかも確認できていなくて」
「つまり圏外」
「今のところは、はい」
美緒はしばらく百々の顔を見てから、ゆっくり箸を置いた。
「それ、思ってるよりしんどい話だよ」
笑わずにそう言う美緒の顔は、普段の騒がしさとはまるで別の人みたいだった。百々は何か返そうとして、言葉より先に少しだけ目を伏せた。
午後の術式展開演習が始まる前、教室の廊下で蒼と鉢合わせた。
「転入初日の食堂と二日連続だな」
彼は軽い調子で言いながら、術式参考書を小脇に抱えていた。笑顔が自然すぎて、初めて見た人間は彼が何も抱えていないと思うに違いない。
しかし百々の目には、左手首のブレスレット型試作品が昨日より淡い光を帯びているのが見えた。魔力消費が増えている、というより、何かを押さえ込むためにエネルギーが費やされている、あの「軋み」。
百々は口を開かなかった。
(まだ、立ち入れる関係じゃない)
「演習、心術って採点に入るの?」
蒼が先に聞いてきた。興味本位という感じはなく、むしろ純粋な技術的関心という顔をしていた。
「今のところ対象外だと思います。未認定体系なので」
「そっか。まあ採点が全部じゃないけどな」
「でも、ここでは採点がかなり全部ですよね」
思ったより直球に出てしまったと百々は気づいたが、蒼は笑ったまま軽く眉を上げた。
「鋭いね」
「すみません、余計なことを」
「いや。――正直だなって思っただけ」
蒼の目が、一瞬だけ別の色を見せた。笑顔のまま、だが何かが揺れた。百々はその揺れを心術の感覚ではなく、ただの「視線」で受け取った。
廊下の向こうから「朝比奈ー! 先生呼んでたよ!」という声がして、蒼はすぐにそちらへ振り返った。
「じゃあ」
一言残して歩き出した背中を、百々はしばらく目で追った。
術式展開演習は、生徒たちが自分の魔法体系を用いた実用術式を展開し、速度・精度・魔力効率の三項目で採点される形式だった。
一人ずつ演習場の中心に立ち、術式を展開する。見学席の生徒たちが静かに眺める中、採点員の教師が手元の記録用紙にペンを走らせる。
蒼の番が来たとき、教室の空気が少しだけ変わった。見学席の誰かが姿勢を正し、誰かが隣の席の友人の袖を引いた。
彼が左手首のブレスレットから魔力を引き出した瞬間、演習場の中央に精緻な術式紋様が広がった。複数の霊脈が交差し、干渉し合い、それでも崩れない構造。手を動かすたびに術式が応答し、光が収束する。
採点席の教師が何も言わずにペンを動かした。
百々は見学席の端から、その術式よりも蒼の左手首を見ていた。ブレスレットの光がまた少し落ちている。術式を展開するたびに、彼の中の何かが少しずつ削られている。
(わかってる。でも今は、私が言うことじゃない)
演習が終わり、教師が「優」と口頭で告げた。見学席のいくつかの列から、ため息とも歓声ともとれない声が漏れた。
蒼は「ありがとうございます」と笑顔で頭を下げた。
百々の番は後半だった。
採点員の教師――齢五十ほどの男性で、帝国魔術師協会の徽章を胸に着けていた――が、名簿を確認してから顔を上げた。
「司早百々。……研究区画からの転入、奨学生枠だな。魔法体系は」
「心術です」
「心術」
教師の口調が一段落ちた。
「未認定体系が採点対象に入っているわけではないが、参考評価として基礎術式展開を見せてもらう。では、何か」
「対象物の感情ノイズを感知し、安定化させる術式を展開します」
「対象物は?」
百々は一瞬、演習場を見渡した。端に使われていない練習用呪符の束が置かれていた。呪符は術者の感情が刷り込まれることがある。
「あの呪符束を」
「……それに感情ノイズがあるとでも」
「あります」
断言した。採点席の教師が少し眉を動かした。見学席がざわついた。
百々は演習場の中央に立ち、目を細めた。心術を使うとき、百々の内側では何かが糸のように伸びる。手先ではなく、もっと奥のほうから。肋骨の内側あたりから、対象に向かって静かに伸びていく透明な糸。
呪符束の中の一枚に、薄い歪みがあった。前に使った誰かの焦りか、怒りか、何かが微細に刷り込まれている。百々はその歪みの輪郭を丁寧になぞり、糸で包んで、静かに解いた。
術式を可視化する呪文を持たない心術は、当然ながら演習場に何も「見えるもの」を作り出さない。光もなく、音もなく、ただ百々が立っているだけに見える。
採点席の教師が腕を組んだ。
「……以上か?」
「はい」
「何が起きたかは、第三者には確認できないな」
「今の術式が機能したかどうかは、呪符を改めて霊脈計で計測すれば数値として出ます。ただ、その計測装置がここにはないので」
「証明できないということだ」
「今この場では、はい」
教師は何も言わなかった。手元の記録用紙に何かを書いて、次の生徒を呼んだ。
百々は見学席に戻りながら、首の後ろが少し熱くなるのを感じた。
隣に美緒が滑り込んできた。
「……百々」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうな顔してる」
「でも大丈夫です」
美緒が何か言おうとして、止めた。代わりに、ただ隣に座り続けた。
演習が終わって廊下に出たとき、上席修士候補の何人かが通りかかった。その中の一人、額に練成紋の入れ墨を持つ女子生徒が、百々を一瞥して言った。
「見えない術式って、要するに何もしてないのと区別がつかないよね」
笑いを含んだ声だったが、大きすぎもせず小さすぎもしない、誰にでも聞こえるちょうどいい音量だった。
百々は足を止めなかった。
(反論してどうなる。証拠がない)
廊下の突き当たりまで来たとき、後ろから蒼の声がした。
「あいつら毎回ああいうことするから、気にしなくていい」 振り向くと、蒼が教科書を小脇に抱えたまま立っていた。すぐに笑顔に戻した。「時間がたてば、結果が全部を言う。それまでだ」
「慣れてるんですか?」
「慣れる必要ある?」
百々は少し考えた。
「……いいえ」
蒼が「そうだよ」と、短く言った。それだけだった。
廊下の窓から夕方の光が差してきた。百々は窓の外の演習区画を見た。桜はほとんど散って、代わりに若い緑が風に揺れていた。
(慣れる必要はない。でも、変える手段がなければ、ここで私が示せるものは何もない)
心の中でその言葉を転がして、百々はまた前を向いた。幼い頃に自分に言い聞かせた言葉がある。証明できないなら、証明できるようにするしかない。
左手の袖口の墨線が、夕光の中でうっすら光った気がした。
夜、寮の部屋に戻ると美緒がベッドに寝転がって天井を見ていた。
「ね、百々」
「なんですか」
「今日の演習のあと、掲示板に仮評価が出てたんだけど」
美緒がぽつりと言う。百々は制服の上着を脱ぎながら振り向いた。
「……参考評価で『記録不十分』って書いてあった。要するにノーカウント」
「そうですか」
「それだけ?」
「それだけです」
美緒が上半身を起こして、百々の顔をじっと見た。百々は目をそらさずにいた。
「……ねえ」
「はい」
「百々って、怒ったりしないの」
百々は鞄を机に置いて、少し考えた。
「......怒ります。でも、怒ってもここでは何も変わりません」
「じゃあ今は?」
「今は……焦ってます、少し」
美緒が息を吐いた。どこか安心したような顔だった。
「そっちのほうが百々っぽいや」
百々は窓の外の夜空へ目をやった。星がいくつか、雲の切れ間から見えた。
(証明できないなら、証明できるようにする。それだけのことだ)
それは子どもの頃に誓った言葉を、もう一度自分に向けて繰り返す声だった。
「美緒さん」
「ん?」
「今日、隣にいてくれてありがとうございました」
美緒が一瞬固まってから、枕を顔に押し当てた。
「そういうこと急に言うのほんとやめてほしいんだけど」
百々は小さく笑った。その夜はじめて、本物の笑いが顔に出た気がした。
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