司早 百々
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
演習区画の端に設けられた実技採点室は、試験が終わった後でも空気がどこかぴりついていた。
朝比奈蒼は最後の一人が退室するのを横目で確認してから、ようやく腕を下ろした。左手首のブレスレットが一瞬だけ熱を持ち、淡い青白い光が弧を描いて消えた。
誰も見ていない。
蒼は静かに息を吐いた。
今日の実技試験――術式展開の速度と精度を測る採点では、クラス最速で最高得点を叩き出した。教師の羽根田は「さすがだな、朝比奈」と事もなげに言い、周囲の同級生たちが「また一位か」と苦笑いした。蒼はそのたびに笑顔を返した。自然に、滑らかに、誰も疑わないような笑顔を。
廊下に出ると、壁に掲示板の反射光が当たっていた。成績順位表。蒼の名前は今日も最上段にある。
それを見た瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
――またか、と思った。
嬉しくはなかった。怖くもなかった。ただ、そこに自分の名前があることが、もはや当然の義務として貼り付いているような感覚があった。一位を取ることではなく、一位で「あり続けること」が自分に課されているものなのだと、いつからか骨に刻まれてしまっている。
廊下を歩きながら、蒼は左手首のブレスレットを親指でなぞった。試作品の第七番。内側に組んだ術式が、今も薄く脈打っている。これは魔力安定用に設計したものだが、最近は出力の微細な揺れを抑えるためにほぼ常時稼働させている。
「また新作か」と友人の誰かが言う。蒼は毎回「試し運転」と答えて笑う。
嘘ではない。ただ、全部を言ってもいないだけだ。
「朝比奈くーん、採点終わった?」
振り返ると、橘美緒が廊下の角から顔を出していた。栗色のはね毛が揺れ、リボンが不釣り合いに大きい。
「終わった。美緒は?」
「あたしは変化魔術の評価で先生に質問攻めにされてた。嫌な時間だったよー」美緒は眉を八の字にしながら歩いてきた。「そういえば、百々は結局どうなったの? 採点が記録不十分って聞いたんだけど」
蒼は少し黙った。
今日の試験で、隣の席の司早百々が、見えない術式展開を記録できないという理由で「記録不十分」の評価を受けた場面を、蒼は横目で見ていた。教師に何かを説明しようとした百々の声は小さく、採点員の「心術は証明できません」という事務的な一言で切り捨てられた。
「本人は黙って帰ったよ」と蒼は答えた。
「黙って?」美緒の丸い目が曇る。「ショックだったよね、絶対。あの子、ああいう時に何も言わないから心配なんだよね……」
蒼はそれ以上何も言わなかった。言えなかった、というより、言う言葉が見当たらなかった。
彼女に何を言うのが正しかったのか。試験の直後、蒼は「時間がたてば結果が全部を言う」と言った。あれは本心だった。だが今思い返すと、それは自分が自分に言い聞かせてきた言葉でもあった。結果を積み上げ続ければ、いつか誰も何も言えなくなる。そう信じて、自分はここまで来た。
だから百々に言える言葉はそれしかなかった。
それが、正しい言葉だったのかどうか、蒼にはわからなかった。
夕刻の演習区画は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
蒼は一人で魔導具の作業台に向かっていた。第八番の試作品。今度は魔力の出力変動を感知して自動補正をかける術式を組み込もうとしている。ここ数週間で三回設計を書き直した。細部が合わない。どこかで何かが噛み合っていない。
手元の術式板に視線を落としながら、蒼は気づかないふりをし続けていた。
左手首のブレスレットが、昨日より頻繁に光っている。自分の魔力消費が上がっていることは、術式が正直に教えてくれる。睡眠を削って作業している。試験勉強も並行している。家からは「次の中間評価の結果を送れ」という文書が届いている。朝比奈家の長男として、学内首位を維持することは義務だ。
別に、それでいい。
蒼は術式板の一点を指で押さえながら、そう思った。これは自分が選んだ道だ。愚痴を言う筋合いはない。誰かに頼む理由もない。
ただ。
作業台の上の術式板が、薄く揺れた。いや、揺れているのは術式ではなく、自分の手だった。指先が細かく震えている。蒼は気づかないふりをして、ペンを持ち直した。
集中しろ。
もう一度、術式の連結部分を書き直す。しかし線が微妙にぶれる。消して書き直す。また、ぶれる。
「……っ」
蒼は静かに息を詰めた。
舌打ちしたいのを飲み込んで、作業台に肘をついた。額を手のひらで押さえる。目の奥が重い。いつから寝ていない? 昨夜は三時まで設計をしていた。一昨日は徹夜だった。その前は——
考えるのをやめた。
「朝比奈くん」
声がした。
振り返ると、演習区画の入口に司早百々が立っていた。小さな手提げ袋を持ち、左耳の白梅の髪飾りが夕灯の光の中でかすかに揺れている。
「呪符の資材を取りに来ただけです。邪魔してしまいましたか」
「いや」蒼は素早く姿勢を正した。「全然」
百々は一礼して棚の方へ歩いていった。蒼は作業台に視線を戻す。ペンを持つ。術式の続きを書こうとする。
書けなかった。
指先が、また震えていた。
今度は誤魔化せなかった。蒼はペンを置き、左手首に触れた。ブレスレットが激しく光り始めていた。それまで断続的だった発光が、急に連続した発光に変わっている。内部術式が限界に近づいているサインだ。
まずい、と思った瞬間、術式板の上の魔力線が一本、断ち切れた。
連鎖だった。
組み込みかけていた術式が、過負荷を起こした。魔導具の中核に溜め込んでいた魔力が一気に不安定化し、作業台の上で小さな魔力波動が膨れ上がる。拡散すれば演習区画の東壁まで吹き飛ぶ。蒼は即座に手をかざして抑制術式を展開しようとした——が、自分の魔力が思うように出なかった。
限界を、超えていた。
「——」
声にならない声が、喉の奥で詰まった。これほどまでに、自分の体が言うことを聞かないことが、なかった。いや、あったかもしれない。ただ今まで気づかないようにしてきただけで。
刹那。
百々が蒼の隣に立っていた。
指先が、静かに持ち上げられた。紫紺の瞳の周囲に、うっすらと紋様が浮かび上がる。蒼の目には、百々が何もしていないように見えた。しかし次の瞬間、ブレスレットの発光が穏やかになり、膨れ上がっていた魔力波動が、まるで水が引くように収縮し始めた。
三十秒も経たなかった。
術式板の上の暴走しかけた魔力が、静かに消えた。
部屋がしんとした。
蒼はしばらく、何も言えなかった。
「……怪我は」と百々が言った。
「ない」
「魔力は」
「……」蒼は左手首のブレスレットを見た。光は消えている。穏やかすぎるほどに。「落ち着いてる」
百々は何も言わなかった。ただ、手提げ袋を作業台の端に置き、蒼の向かいの椅子を引いた。座るつもりだ、と蒼は思った。
「なんで」声が出た。自分でも驚いた。「俺の状態、わかったんだ」
百々は少し間を置いた。
「見えてたんです。最初から」
「何が」
「魔力のノイズが。朝比奈くんの体から出てる——きしむような、歪み。今日の試験の前からも。ずっと」
蒼は百々の顔を見た。彼女は目を逸らさなかった。紫紺の瞳が、静かに、真っすぐに、こちらを見ている。
「心術、使えるんですか。それが私の魔法です」
蒼はしばらく黙っていた。
心術。精神領域に干渉する稀少な魔法。学内で懐疑的な目で見られている、「証明できない」と切り捨てられたあの術。
「今日の試験で記録不十分って言われてたやつ」
「はい」
「それで、俺の状態が見えてた」
「はい」
蒼はゆっくりと作業台に肘をついた。額を手で押さえる。笑いたかったが、笑い方がわからなかった。
「……笑い話だな」
「笑えないです」と百々は言った。声に感情はなかった。ただ、きっぱりとしていた。「朝比奈くんが今夜倒れてたら、笑えない」
「大げさだ」
「大げさじゃないです。あのまま魔力が暴走してたら、自分の体に術式が逆流してました」
蒼は黙った。
それは知っていた。頭では、わかっていた。ただ止まれなかった。止まるという選択肢が、自分の中にそもそも存在しなかった。
「なんで止まれないんですか」
百々の声は静かだった。責めてもいなかった。ただ、問うていた。
蒼はしばらく作業台の木目を見つめた。
「……止まったら」
声が出た。自分でも予想していなかった言葉が。
「終わる気がするから」
百々は何も言わなかった。
蒼は続けた。止める理由がなかった。今ここには誰もいない、採点員も、クラスメイトも、父親も。ただこの静かな目を持つ転入生が、術式が消えた後の作業台の前に座っている。
「俺は朝比奈家の長男で、ずっと一位で、魔導具の天才なんだよ。それが全部だから」
「全部、だから」
「それ以外の何かになったことが、ない」
声が出てから、蒼は自分が初めてその言葉を声に出したことに気づいた。誰かに言ったことは一度もなかった。言う意味がわからなかった。言ったところで何も変わらない。結果を積み上げることしか、自分には許されていなかった。
「それ以外の何かになろうとしたことも、ないです?」
百々の問いに、蒼は少し考えた。
「……魔導具は」と言った。「好きで作ってる」
「誰かに見せるためじゃなくて?」
「そう」
「それは、天才じゃなくてもできることです」
蒼は顔を上げた。
百々は一瞬、息を詰めた。蒼の言葉が心に届くのと同時に、自分の胸に誰かが握った拳があることに気づく。自分もそうだった。証明することしか知らず、気づいたら立ち止まることを忘れていた。だから、と百々は思った。 「好きだから作るのは、証明とは別のことです。天才がやることじゃなくて、朝比奈蒼がやること」
誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
評価でもなく、激励でもなく、ただそれを事実として言い切られた。
蒼は何も言えなかった。笑顔も出なかった。それが今夜、一番正直な反応だった。
「今日はもう帰った方がいいです」百々が立ち上がった。「魔力が落ちてます。続きは明日」
「……そうだな」
「転んでもしらないです」
「転ばない」
「万が一転んだ時のために、私は後ろを歩きます」
蒼はそれを聞いて、一瞬戸惑った。笑顔も作らず、かといって拒否もできない。その曖昧さが、自分らしくなくて、戸惑った。
演習区画を出ると、夜の学舎都市には風が吹いていた。蒼は少し先を歩く百々の背中を見ながら、左手首のブレスレットに触れた。光は消えたままだった。
止まったら終わる、と思っていた。
けれど今夜、自分は止まった。倒れたのではなく、誰かに手を差し伸べられる前に、何かが抜けていった。それが何なのか、蒼にはまだわからなかった。
ただ、軋みが今夜だけ、少しだけ小さくなっているような気がした。
百々は振り返らずに歩いていた。小柄な背中が、夜の灯りの中を静かに進んでいく。
「司早」と蒼は呼んだ。
「はい」
「今日の、ありがとう」
百々は少し間を置いた。
「約束してください」と彼女は言った。振り返らずに。
「なんの」
「限界になる前に、言葉を出すこと」
蒼はしばらく歩きながら考えた。
「……難しいな」
「難しくていいです。ただ、約束してください」
夜風が吹いた。蒼は空を見上げた。星がいくつか出ていた。
「......難しいけど」と彼は言った。「できるだけ、な。今すぐは無理だが」
百々はそれきり何も言わなかった。
二人は並んで、学舎都市の夜を歩いた。
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