朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
翌朝の教室は、何事もなかったように時間を刻んでいた。
窓から差し込む朝の光の中で、生徒たちは教科書を開き、誰かが笑い、黒板に術式の記号が連ねられていく。百々はその光景を眺めながら、袖口の呪符用墨痕を指先でなぞった。昨夜の記憶は確かに残っている。演習区画の暗闇の中で、蒼の魔力が崩れていく感触。指を走らせた心術の感覚。そして彼が初めて見せた、崩れた横顔。
「おはよー、百々」
隣の席から声がした。
蒼が椅子を引きながら鞄を置くとき、その左手首のブレスレットが朝の光を受けて微かに光った。いつもと同じ、やや着崩した制服。いつもと同じ、柔らかい笑顔。ただ昨夜と違うのは、百々がその笑顔の奥を——もうためらわずに——見ていることだった。
「おはようございます」
ノイズは、まだある。しかし昨夜よりも薄い。
蒼は百々の視線に気づいたのか、少し眉を上げた。
「……そういう目で見られると、なんか落ち着かないな」
「すみません」
「謝ることじゃないけど」彼は口の端を上げた。「昨日の話、覚えてるだろ。限界になる前に言葉を出すって言った。そっちも、気づいたことがあったら言ってくれ」
百々はわずかに目を細め、小さく頷いた。
その日の授業が終わった後、廊下を歩いていると後ろから袖を引かれた。
「ちょっとちょっとちょっと」
美緒だった。栗色のはね毛を弾ませながら、百々の腕をぐいぐい引っ張って廊下の隅に連れ込む。大きな目がきらきらと光っている。
「昨日、蒼くんと一緒に帰ってきたでしょ。寮のそばで見たんだけど」
「……作業中に、少し手伝っただけです」
「その表情で言われても全然信じられないんだけど」美緒は腰に手を当てた。「二人とも変な顔してたもん。普通の顔してなかった」
「変な顔……」
「言葉が少ない顔とでも言うか」美緒は頬に指を当てて考える仕草をしてから、すぐに真剣な目になった。「蒼くん、なんかあった?」
百々は少しだけ沈黙した後、「蒼さんに聞いてください」とだけ返した。美緒はその答えから何かを読み取ったらしく、それ以上は追わなかった。ただ、歩き出す前にぽつりと言った。
「百々がちゃんと隣にいてあげてるなら、それでいいや」
事態が変わったのは、それから三日後だった。
演習区画の記録室に、あの夜の術式残滓の分析報告書が提出された。過負荷状態の魔導具が引き起こした軽微な暴走。それ自体は処理されたはずの案件だったが、記録係の教師がある点に気づいた。暴走を収めた術式の痕跡が、魔導具の制御ではなく——別の何かによるものだったということに。
「司早さん、少し時間がありますか」
二時限目の終わりに、担任の帆川が教壇の前で百々を呼んだ。声のトーンは平坦だったが、その平坦さ自体が百々には警告のように聞こえた。
職員室の小さな応接室は、午後の光が差し込んで明るかった。しかし椅子を勧めた帆川の隣に、百々は別の教師の顔を見つけた。魔法評価担当の長峰だった。白衣に近い形式の術師装束を着た、眼鏡をかけた四十代の男性。
「記録室からの報告を受けて、確認したいことがあります」長峰は書類を机に置いた。「先日の演習区画での術式残滓について。この干渉型術式の痕跡は、あなたのものと一致します」
百々は背筋を伸ばしたまま頷いた。「はい、私が使いました」
「その術式の登録体系は?」
「心術です。私の魔法体系で」
長峰と帆川が視線を交わした。その一秒が、百々には随分長く感じられた。
「心術は現在、本学舎において正式な魔法体系として認定されていません」長峰の声はあくまで事務的だった。「未認定の術式を、他者の魔力状態に無許可で干渉する形で行使することは、規程の第十四条に抵触する可能性があります」
「暴走を止めなければ、当該生徒が負傷していた可能性がありました」
「それは理解しています」長峰は書類の端を揃えた。「ただし手続きとして、正式に事実確認を行う必要があります。来週の教師会議で、あなたの術式使用についての審議が行われます」
帆川が少し間を置いてから「状況を詳しく話せる機会は設けます」と付け加えた。それがせいぜいの配慮だということは、百々にもわかった。
応接室の外に出たとき、廊下の空気がひどく遠く感じた。 規程の第十四条。 頭の中でその言葉が静かに転がり続ける。呪符用の墨痕を指でなぞった。蒼さんを助けることと、規程に背くことが同じ天秤の上に乗っている現実は、想像以上に重たかった。自分でも知っていた条文だ。心術が体系として確立されていない以上、他者への干渉は常にグレーゾーンに位置する。わかっていた。それでもあの瞬間、百々には躊躇いがなかった。あの夜の蒼の魔力が崩れていく感触を、ただ見ていることなんて——できなかった。
翌日、それは噂になっていた。
廊下の端から端へ流れるような速さで。「転入生が他者に無許可で術式を使った」「心術だろ、あれって危ないやつじゃなかったっけ」「研究区画の奨学生って、基準が違うから」。百々には正面から言ってくる者は誰もいなかった。ただ教室に入ったとき、二、三の視線が一瞬だけこちらを向いて、それから逸れた。
席についたとき、隣から声がした。
「聞いた」蒼はノートを開きながら、ただそれだけ言った。「帆川先生に呼ばれたんだろ」
「はい」
「俺のせいだ」
「違います」百々は静かに返した。「私が判断して使ったことです」
「……でも事が起きたのは俺の過負荷のせいで」
「蒼さん」百々は手元を見たまま、少しだけ声を落とした。「あなたのせいにしたくて言ってるわけじゃないんです。ただ、私は自分の術式に責任を持ちたい」
蒼はしばらく黙った。ノートのページが一枚めくれる音がした。
「来週、教師会議に出るんだって?」
「はい」
「……わかった」
それだけ言って、蒼は前を向いた。その横顔に何かがよぎったのを百々は見たが、それが何なのかを問い返す前に授業が始まった。
週が変わった。
寮の自室で百々が呪符の整理をしていると、美緒が机の前にどんと座った。手には分厚いファイルを持っている。
「ねえ、これ見て」
ファイルには付箋が無数に貼られていた。開かれたページには、学舎の規程集のコピーが細かい書き込み付きで並んでいる。
「第七十二条、研究保護奨学生の術式使用について」美緒はページを叩いた。「研究区画奨学生として在籍する生徒が、研究目的で使用する術式は、正式認定前においても暫定使用が認められる、って書いてある。百々、あなた研究区画奨学生でしょ」
百々はページに目を落とした。確かにその条文がある。
「でも私の術式が研究目的かどうか、認定されるかどうか——」
「それを会議で言う必要があるってこと。ただ、証拠が要る」美緒はファイルを閉じた。「あなたの術式が確かに機能したって、数値的な根拠が何かあれば一番いいんだけど」
「心術の効果は、目に見えないものです。今まで一度も、数値化できたことが——」
「俺、できるかもしれない」
ドアの方から声がした。
二人が振り返ると、廊下に蒼が立っていた。美緒が腰を浮かせる。
「……なんであなたが女子寮に」
「美緒に声かけたら案内してくれた」蒼は肩をすくめて、百々に視線を向けた。「ここ三日で作ってたんだが、完成したから持ってきた」
彼が差し出したのは、掌に収まるくらいの小さな術式記録器だった。深い藍色の石に細い金属の枠が組まれた、精緻な構造の装置。左手首のブレスレットと同じ、繊細な細工が施されている。
「心術の波長に合わせた共鳴型の記録器だ。お前が術式を使ったとき、俺のブレスレットの魔力変動を全部記録してた。来週の会議で、その数値を出せる」
百々は装置を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
「……三日で」
「構造自体は前から頭の中にあった。あとはお前の術式の波長を参考にして調整するだけだったから」蒼はさらりと言ったが、その声の下には三日間の集中力と睡眠不足を隠そうとする意図が感じられたが、その左手首には新しい小さな傷が二、三か所ある。試作と修正を繰り返した痕跡だ。
美緒がその傷に目を留めて、何かを言いかけて——黙った。
「蒼さん」百々は顔を上げた。「どうして」
「お前が俺を助けたのは事実だ」蒼は装置を百々の手に乗せた。「それを俺が証明したい。それだけだ」
その言葉はあっさりしていた。飾りがなく、ただそのままそこにある言葉だった。百々は装置を握り締めたまま、視線を落とした。ブレスレットと同じ藍色の石。誰かのために作られた、初めての魔導具。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。会議で使えなかったらごめんだけど」
「使わせてください」百々は顔を上げた。「使います」
美緒が盛大にため息をついた。
「もう、二人してそんな顔で話さないでよ。なんか私が余計な気がしてくる」
教師会議の日は、昼過ぎから空が曇っていた。
百々が会議室に入ったとき、机の奥に帆川と長峰、それから百々が顔を知らない二人の教師が座っていた。長峰が書類を手にしながら開口した。
「では、術式使用に関する事実確認を——」
「先に、資料を提出させてください」
百々の声は震えていなかった。机の上に置いたのは、蒼が作った記録器から出力した術式変動のデータ。それから美緒が付箋だらけにして持ってきた規程集のコピー——第七十二条。
「私の術式が他者の魔力状態に干渉したことは認めます。ただし、研究区画奨学生の暫定使用規程に基づいて行使しています。そして、術式が確かに機能したことを示す魔力変動の記録があります」
長峰が記録器のデータに目を落とした。眼鏡の奥の目が細くなる。
「これは……魔導具による計測値か」
「はい。装置は朝比奈蒼さんが今回のために製作したものです。彼の魔力状態が私の術式使用前後でどのように変化したか、正確に記録されています」
しばらく沈黙があった。帆川が数値を指でなぞりながら、隣の教師に何か小声で言った。
百々は背筋を伸ばして、その時間を待った。
会議の結論が出たのは一時間後だった。
帆川が廊下に出てきた百々に告げた。「司早さんの心術については、研究保護対象魔法体系として暫定認定します。正式な体系化申請の手続きを進めてください」
百々はゆっくり一礼した。
廊下を歩きながら、空気をうまく吸えない感覚があった。怒りでも悲しみでもなく、ただ何かが抜けていくような——張り詰めていたものが少しだけ緩んだ感覚。
出口の近くのベンチに、蒼が座っていた。
「どうだった」
「暫定認定、いただきました」
蒼の肩が、わずかに下がった。それだけだったが、百々にはそれで十分だった。
「蒼さんの装置が証拠になりました」
「そりゃよかった」蒼は立ち上がり、百々に向き直った。「お前の魔法、俺が形にするのを手伝いたい。体系として完成させるまで」
百々はしばらく彼を見た。
「約束してください」と、静かに言った。「途中で投げ出さないって」
蒼は一拍置いた。それから、笑った。
飾りのない笑顔だった。いつもの明るい笑顔ではない。柔らかくて、少し不格好で、けれど初めて誰かに向けられた本物の顔がそこにあった。
「絶対」
夜、寮の部屋で美緒が話を聞いて大騒ぎした。布団を蹴り飛ばし、枕を抱えて転がり回り、「もう無理」と三回言った。
百々はそれを制服の上着を脱ぎながら眺めていた。
消灯間際、美緒が布団の中に潜り込んでから、ぼそりと言った。
「よかったね、百々」
その声のトーンは昼間とまるで違った。静かで、まっすぐで、余計なものが何もない声だった。
百々は返事をする前に、窓の方を向いた。
曇っていた空が晴れ、細い星がいくつか出ていた。
――心術で誰かを救う魔術師になる。
幼い頃に自分に向けた言葉が、今日初めて少しだけ、現実の重さを持った気がした。
「はい」と百々は言った。「ようやく、動き始めた気がします」
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