朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
土曜日の朝は、いつもより遅い時間に始まる。
百々が目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が部屋の床を斜めに横切っていた。時計を見ると、もう九時を少し回っていた。普段なら自然に起きる時間だったが、昨夜遅くまで心術の記録ノートを更新していたせいで、体がまだベッドの重力に引き寄せられている。
「ももっ、起きてる?」
隣のベッドから声がして、続いてバサッという音がした。美緒が布団を蹴り飛ばした音だと、百々はもう覚えていた。
「起きてます」
「やった! じゃあ今日、出かけよう」
跳ね起きた気配がして、カーテンが勢いよく開かれた。百々は思わず目を細める。
「街って言っても、アカデミアの中心部でしょ。あそこ行ったことある? 中央広場の方。学舎と研究区画しかうろついてないでしょ、転入してから」
美緒はもう制服でもない楽な私服に腕を通しながら、鏡の前で器用に頭を振った。ボブの跳ね毛がぴょんと跳ねる。
「……行ったことは、ないです」
「そうでしょそうでしょ。もったいない! 中央広場、週末は出店とかも出るし、アーケードもあるし、あとほら、ちょっと歩けば魔術道具の専門店街もあって——」
美緒の話は止まらなかった。百々は静かに起き上がりながら、その声の温度を聞いていた。嬉しい、という感情が声そのものに乗っていて、心術を使わなくても伝わってくる。
「行きます」と百々は言った。
美緒が振り返って、満面の笑みを見せた。
学舎の門を出ると、空気が少し違った。
研究区画や演習場のある学舎内部は、どこか魔力の気配が底に沈んでいる。何十年もの術式が重なり合った結果なのだと、百々は感じていた。それが悪いわけではないのだが、一歩外に出ると、空気が薄くなるのではなく、逆に解放されるような感覚がある。
中央広場へと続く石畳の通りは、週末らしく人が多かった。同じ学舎の生徒らしい顔も混じっているが、それよりも、学園都市全体を構成する普通科や商業科の生徒たちの方が多い。年頃の子どもたちのための街、という言葉が百々の頭に浮かんだ。書店、菓子屋、式具材料の露店、魔術小物を扱うアクセサリーショップ——どの店の前にも人だかりができていて、笑い声や呼び込みの声が混じり合っている。
「ほら見て、あの露店! 今日、出てる!」
美緒が百々の袖を引いた。石畳の脇に、小さな屋台が並んでいた。揚げ菓子の甘い匂いが漂ってくる。
「桜花糖——あれ、季節限定なんだよ。行こう行こう」
「美緒さん、まだ十時前ですよ」
「甘いものに時間は関係ないから」
論理ではなく信念だった。百々は小さく笑いながらついていった。
桜花糖は、薄い衣をつけて揚げた生地に術式で着色した砂糖をまぶしたもので、噛むとほんのり桜の香りがした。美緒は三種類を迷いもなく全部注文して、一つを百々に渡した。百々は受け取りながら、まだ温かい甘い香りを鼻先で感じた。
「おいしい」と言ったら、美緒は「でしょ!」と笑った。
二人はアーケードを歩いた。美緒はあちこちの店の前で立ち止まり、店員と話したり、ショーウィンドウに顔を近づけたりした。百々はその少し後ろを歩きながら、街の息づかいを感じていた。学舎の中では意識しないようにしている心術の感度を、百々はここでは少しだけ開いた。
人が多い場所では、感情の波が重なり合う。不安、期待、高揚、退屈——それがさざ波のように押し寄せてくる。百々はそれを「聞く」のではなく、ただ「受け取る」ようにしていた。圧倒される手前で止めておく加減を、彼女はもうだいぶ習得していた。
悪くない、と思った。こういう場所の温度は、嫌いではなかった。
「百々ってさ」
美緒が立ち止まった店は、小型魔導具を扱う小店だった。ガラスケースの中に光を発する術石や、式神召喚用の小型触媒が並んでいる。
「蒼くんのこと、好き?」
百々の手の中の桜花糖が、止まった。
「……急ですね」
「急じゃない。ずっと聞こうと思ってた」
美緒はガラスケースを覗き込みながら、でも目線だけを百々に向けた。百々はしばらくアーケードの天井を見た。術式で強化された硝子屋根を通して、白い空が透けて見える。
「わかりません」と百々は言った。
「なんで」
「誰かを好きになるって、こういう感じなんですか、っていうのが、私にはあまり——」
「あー」美緒がわずかに頷いた。「そういうことか」
美緒はガラスケースから目を離して、百々の方を向いた。丸い目が、いつもより少し柔らかかった。
「わからなくていいと思う。なんか、それってちゃんと百々っぽいし」
百々は何も言わなかった。返す言葉を探すより先に、美緒の声が、また温かく心術の外側から届いてきた。
「でも、隣にいると安心する人がいるんだとしたら、それはもうそういうことなんじゃないかなあ」
アーケードの出口に近い広場は、石畳が広くなっていて、中央に小さな噴水があった。術式で着色された水が、薄く青く光を帯びながら弧を描いている。年中無休で動く式術装置だと、以前美緒が教えてくれた。
「あ、ちょっと待って。あの店、呼符用の筆が——」
美緒が脇の路地を覗き込んで、一瞬で反応した。百々は「先に広場で待ちます」と言って、噴水のそばの石縁に腰を下ろした。
水音が、街の喧騒に混じって静かに響いていた。
「……なんで、ここにいるんだ、お前」
声がした。百々は顔を上げた。
噴水の向こうに、蒼が立っていた。
手に何か小さな袋を持っている。魔導具の部材だろう。外出着に着替えてはいるが、左手首のブレスレットはやはりそこにある。
百々は少し目を見開いた後、ごく普通に答えた。
「美緒さんに連れてきてもらいました」
「美緒と?」蒼が眉を動かした。「あいつ、今日出かけるって言ってたか」
「言ってないと思います。朝に急に」
蒼は小さく笑った。それはいつもの、表面を滑るような笑顔とは少し違った。どこかずっと力が抜けている。
「お前は? 今日、こっちに来たかったの」
「……来てよかったと思ってます」と百々は言った。「知らない街じゃないのに、知らないものがたくさんあるんだなと思って」
蒼は答えずに、噴水の縁に並んで座った。学舎の中でもここでも、彼はいつも自然に距離を詰めてくる。百々はそれをもう、不思議と思わなくなっていた。
「俺も今日、こっちに来るつもりなかった」蒼は袋を膝の上に置いた。「部材が足りなくて、でも学舎の資材室は週末在庫が薄いから、こっちの専門店街の方が早くて」
「また何か作ってるんですか」
「まあ」
百々は蒼の左手を見た。ブレスレットの術石が、今日は薄く緑に発光している。試運転の色だと、百々はもう覚えていた。
「術式記録器の改良版」と蒼は言った。「あれ、精度はそこそこだったけど、感度が低い帯域があって。百々の心術、微細なところまで取りこぼしてた可能性があるから」
百々は少し黙った。
「……それ、私のために」
「体系として完成させるの、手伝うって言ったから」
あっさりと、蒼は言った。でも百々には、その「あっさり」の下に積み重なっているものが、少しだけ見えた。昨日あのブレスレットが緑に光っていたのを見た。一昨日も。
「ありがとうございます」と百々は言った。
蒼は少し首を傾げた。
「お礼言われることか、これ」
「言うことです」
「……そうか」
短い沈黙が落ちた。水音だけが、二人の間に静かに流れていた。
「なあ」と蒼が言った。
「はい」
「お前が心術使う時、何が見えてる? 具体的に」
百々は噴水の水面を見た。青い光が揺れながら、形を変えている。
「見える、というより感じる、に近いです。感情が——波みたいになって、伝わってくる。怒りは赤、悲しみは灰色、って決まったものじゃなくて、もっと複雑で」
「複雑って」
「人によって違います。蒼さんの場合は」百々は少し考えてから言った。「弦、みたいな感じでした」
蒼が黙った。百々は続けた。
「すごく綺麗に張ってあるのに、ところどころ限界まで引き絞ってある。触れると音が鳴るんですけど、その音が、痛いんです。聞く方も」
水が落ちる音がした。
蒼はしばらく何も言わなかった。百々も待った。
「......そんなふうに見えてたのか」 蒼は一瞬、黙った。その沈黙は、百々の言葉を受け入れるというより、自分自身と距離を作ろうとしているかのようだった。 「最初からか」と蒼は別の角度から聞いた。 「席が隣になった、最初の日から」 蒼は手の中の袋を握り直した。百々はその仕草を見ていた。 「......今は、どう思う」と蒼は別の言葉を選んで言った。
百々はしばらく考えた。心術の感度を、少しだけ開く。蒼の方向から伝わってくるものを、静かに受け取った。
「……張り方が、少し変わりました。同じ張力じゃなくなってきてる」
蒼は前を向いたまま、視線だけを百々に向けた。
「良い意味で?」
「はい」と百々は答えた。「良い意味で」
また短い沈黙があった。今度のそれは、さっきのものとは質が違った。百々は水音を聞きながら、その沈黙の温度を確かめた。穏やかだ、と思った。
「百々ーー!! ていうか蒼くん!? なんで!?」
声は広場の入口から来た。
美緒が、紙袋を抱えたまま全力で駆けてくるところだった。目が人の三倍くらい見開かれている。
「偶然だそうです」と百々は先に言った。
「偶然!? 待ってなんで今日こんな偶然が!?」
「部材買いに来た」蒼が答えた。
「部材!? でも今ここにいるじゃないですか!? 噴水の前で!? 私のこと待ってた百々の隣に!?」
「座ったら話してた」
「何それ、何それもう——」美緒は紙袋を胸に抱えて、二人を交互に見た。顔が、やや高温になっている。「二人で何話してたの」
「心術の話です」と百々は言った。
「心術の話」美緒が繰り返した。「デートみたいな場所で心術の話」
「デートじゃないですよ」
「でもここ、噴水前だよ? アカデミアで一番そういうシチュエーション向きの場所だよ?」
「知りませんでした」と百々は言った。「美緒さん、どうして教えてくれなかったんですか」
「教えてたら連れてこれなかったから!」
蒼が笑った。さっきと同じ、力の抜けた笑い方だった。美緒がそちらを向いて、何かを言いかけてやめた。
百々は美緒が何を感じたのかを、見ずにわかった気がした。
「三人で昼飯でも食うか」蒼が立ち上がって言った。言葉にする前に、彼は百々の方を見ていた。「どうせまだ用があるんだろ、美緒」 「ある!」美緒が即答した。「呼符用の墨がまだで、あと百々に式石専門店連れてきたくて」 「百々が式石を見るなら、感度帯域の参考になるし」蒼は続けた。理由をつけているのが、本人にも他人にも明らかだった。
それは、全部本当のことだった。でも百々には、「そういうことにして」動いているのだということも伝わってきた。
「……ありがとうございます」と百々はまた言った。
「だから、お礼言うことじゃない」
「言うことです」と百々はもう一度答えた。今度は蒼も笑いながら否定しなかった。
噴水の水が、青く光りながら弧を描いていた。三人分の足音が石畳に重なって、アーケードの方へと続いていく。
美緒の声が、街の喧騒の中でいちばん高く響いていた。
百々は前を歩く二人の背中を見ながら、心術の感度をそっと閉じた。今は要らなかった。ここにある温度は、魔法なしで、ちゃんと届いていた。
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