咲羅
主人公の式神
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
土曜日の午後、アカデミア中央広場の雑踏は昼を過ぎてもまだ活気を帯びていた。
「百々、ちょっと待って、このお店気になる」
美緒がショーウィンドウに顔を押し付けながら立ち止まる。変化魔術用の触媒を扱う専門店らしく、色とりどりの鉱石が棚に並んでいた。百々はその隣で、指先に魔力をほんのわずかに灯して呼符の材料リストを確認していた。蒼との約束――心術の基礎記録を改めて取り直す作業に向けて、今日は消耗した呪符素材を補充しておきたかった。
「先に行って見てきていいよ。私は呪符用の和紙を探してくるから」
「どこの店?」
「たぶんあっちの方向に紙専門の店があると、寮の掲示板に——」
言いかけた百々の足が、止まった。
意識より先に、足が動いていた。
広場の外れ、日当たりの悪い路地を一本入ったところに、その店はあった。看板も小さく、暖簾は色褪せていて、表に出ている商品棚の端には値落ちした使い古しの術符が無造作に積まれている。どこにでもある、くたびれた式神商だった。
百々は美緒に声をかけることも忘れて、暖簾をくぐった。
店内は薄暗く、線香のような甘い匂いがした。棚という棚に木籠や竹籠が積み上がり、中には様々な式神たちが収まっている。眠っているもの、羽を休めているもの、虚ろな目で宙を見つめているもの。心術回路に触れてみれば、そこかしこにぼんやりした意志の揺らぎが感じられた。店の奥は薄い暗闇に溶けていて、どこまで続いているか見当もつかない。
足が、前へ向いた。
意識が追いついてくる。待ちなさい、と内心で声が上がるより早く、体は棚の隙間を縫って歩いていた。
奥へ。奥へ。
呼ばれている、と百々はわかった。
心術回路を起動したわけではない。何かを感知しようとしたわけでもない。ただ、胸の真ん中あたりに、糸を引っ張られるような感覚があった。細く、しかし確かな、そういう感覚。
棚の最も奥まったところに、ひとつだけ竹の檻があった。
他の式神入れとは違い、その檻だけが棚に置かれているのでなく、宙にふわりと浮いていた。誰かがそういう術をかけているわけでもなさそうだった。ただ、そこにある。まるで、最初からそこに浮かんでいることが当然であるかのように。
檻の中に、雀がいた。
ごく普通の雀だった。体は小さく、羽は茶褐色で、特筆すべきところが何もない。
値札が竹籠の端に結ばれていた。百々が学舎の購買部で消しゴムを買えるくらいの値段だった。
しかし百々は、その雀から目を離せなかった。
心術回路を開くまでもなく、その存在から何かが流れてきていた。春の初日に顔を上げたとき、空が予想より遠くて目眩がするような、そういう感覚。喉の奥が甘くなるような、でも胸の芯が静まり返るような、そういう何か。
雀の目が動いた。
小さな赤い目が、百々をじっと見た。
檻ごしに、視線が合った。
その目に、百々は何かを見た。言葉では測れないものが、ほんの一瞬、そこにあった。
「あの」
気づけば百々は、雀に向かって話しかけていた。
「あなたが、呼んでいましたか」
雀は答えなかった。ただ、小さく頭を傾けた。まるで当然だろう、とでも言うように。
「いらっしゃい」
後ろから声がした。百々が振り返ると、白髪交じりの老店主が棚の陰から現れていた。
「その子を見てるね」
「……はい」
「それは、その子が気に入ったんだよ。」老人は特に驚いた様子もなく、棚の端を指でなぞりながら言った。「普通は振り向かないんだけどねえ。今まで何十人も通り過ぎたのに、ずっとあそこに浮いたままだった」
「なぜ浮いているんですか」
「さあ。入荷したときからそうだよ。置いても、朝になったらまた浮いてる。もう諦めた」
百々は再び雀を見た。値札を手に取る。確かに安い。呪符用の和紙を諦めれば、今日の手持ちで買える。
「あの、この子は——何という種類の式神ですか」
「スズメ、雀だよ。見ての通りの」
老人は事務的に答えた。百々はそれ以上聞かなかった。
ただ、ゆっくりと値札を握った。
「百百百百百々ーー!」
店の外に出ると、美緒が路地の入口に立っていた。両手を大きく振りながら、そばかすの散った頬を怒りと心配で半々に染めている。
「百々ー!どこ行ってんの!?勝手に消えないでよ!」と、もっと感情的に、時には少し怒ったような口調で
「ごめんなさい」百々は頭を下げ、それから手の中の小さな竹籠を持ち上げた。「式神を、買いました」
美緒が目をぱちくりさせた。籠を覗き込み、中の雀をしばらく眺める。
「……え、雀? 普通の? 百々、式神って今まで必要なかったって言ってたじゃない」
「そうなんですけど」
「なんで急に」
「呼ばれていたので」
美緒は口を開き、閉じ、また開いた。
「心術的に?」
「そうでもないような気がします。でも……そうでもあるような」
「なにそれ」美緒は困ったように頭を掻き、それから雀をもう一度見た。「ま、いっか。可愛いし。名前とか決めた?」
百々は雀を見た。雀は百々を見た。
「まだです。でも——なんとなく、向こうが持っているような気がします」
美緒がまた口を開き閉じしてから、「百々、あなたやっぱり独特だね」と言った。
女子寮に戻ったのは夕方近かった。
部屋のデスクに籠を置くと、百々はしばらくそれを眺めた。雀はおとなしく止まり木に止まっていたが、その赤い目はずっと百々を追っていた。
「あなたのことが、わかりません」
声に出して言ってみた。
雀は首を傾けた。
「名前もわからないし、何がしたいのかもわからないし、なぜ私を呼んだのかも」
傾けた頭をまっすぐに戻して、雀はくちばしを開いた。
声は出なかった。ただ、そのくちばしの動きを見ていた百々の胸の奥で、何かがほんの少しだけ、緩んだような気がした。
心術回路を、ごく薄く開いた。 意識が広がる。壁の向こうに美緒の軽い眠気。廊下から誰かの小走り。階下から食堂の食器の音。 それらを意識的に優先度から下げて、目の前の籠に集中させた。そして、目の前の籠から——春だ、と百々は思った。
春の空気を部屋ごと詰め込んだような、暖かくて少し眩しくて、くすぐったいような感触。心術で拾える感情のノイズではない。もっと原初的な、魔力の手前にあるような何かだった。
「……あなたは、何者ですか」
今度は雀ではなく、その存在ごとに向かって聞いた。
雀が羽を広げた。小さな体には不釣り合いなほど、その動きは優雅だった。
その瞬間、百々の心術回路に、何かが触れた。
外から来た感触ではなかった。内側から起こされたような。眠っていた何かが、手を伸ばされて目覚めるような。
春天雀、という言葉が、どこからともなく来た。
声ではなかった。文字でもなかった。ただその概念が、するりと百々の中に落ちてきた。
百々は静かに目を閉じた。
記憶の中に、その言葉があった。孤児寮の図書室で、ぼろぼろになった式神図鑑を何度もめくったこと。失伝した心術の記録を拾い集めていたとき、何かの注釈として見かけた名前。春を司る伝説の式神。心術の源流と同じ時代を生きた、と記されていた気がする。
百々はゆっくりと目を開けた。
目の前の雀は、ごく普通の雀だった。値札は安かった。棚の隅で宙に浮いていた。老店主は「スズメだよ」と言った。
「あなたが、春天雀」
呟くように言った。断言ではなかった。問いでもなかった。
雀は答えなかった。ただ、その赤い目が細められた。まるで、満足しているような。まるで、ようやく気づいたか、とでも言いたそうな。
百々は少しの間だけ、その目を見つめた。
窓の外では夕日が西に傾き始めていて、部屋に橙の光が差し込んでいた。春の日差しは柔らかく、籠の中の羽を暖かく染めた。
「——では、一緒にいてもらえますか」
式神を迎える正式な口上ではなかった。ただの問いかけだった。
雀が、一度だけ、深く頷いた。
「名前、決まった?」
夕食の後、美緒が百々の机の上の籠を覗き込みながら聞いた。
「まだです。でも——向こうから教えてもらえる気がするので、急がなくていいと思っています」
「え、式神が自分の名前を教えてくれるの?」
「そういうことがあるらしいです。心術の古い記録に」
「へー……」美緒は雀を指先でつんつんしようとして、雀に無視された。「なんか、生意気な雀だね」
「そうかもしれません」
百々は微かに目を細めた。
「でも、そういうものに呼ばれたんだと思います。私が。」
美緒が「どういう意味?」と聞きかけたとき、百々はそっと籠に手を添えた。
その手に、また、春の感触が触れた。
心術の糸がわずかに共鳴するような、原初の揺らぎ。まだ何もわからない。この式神が何を知っているのか、何を求めているのか、何を教えてくれるのか。
でも百々は確かに、これは必然だったと思った。
失伝した心術の断片を一人で拾い集めてきた年月。体系になりきれない自分の魔法を、一つ一つ手探りで積み上げてきた時間。蒼の魔力を感知し、美緒の笑い声の裏にある孤独をそっと知り、それでも自分の術が「証明できるもの」になる日を信じて、今日まで来た。
この子は、そういう時間の果てに現れた。
「……咲羅」
声が出た。
自分でも気づかないうちに、口が動いていた。
美緒が振り返る。百々は少し目を丸くしてから、籠の中の雀を見た。
雀は、羽を一度だけ、大きく広げた。
「——咲羅、というのかもしれません」
「さくら? 桜?」
「咲く、羅——薄衣、という漢字の羅です」
美緒がぽかんとした顔で雀を見る。雀は美緒を一瞥してから、百々に向き直った。その所作に、美緒は何かを感じ取ったのか、「あ、この雀ちょっとやばいかも」と小声で言った。
百々は微かに笑った。
「やばくはないと思いますよ。ただ——少し、気まぐれな方なのかもしれません」
咲羅は、百々を見た。
その小さな赤い目の中に、また、春が満ちていた。
夜、美緒が寝息を立て始めてから、百々は窓際に椅子を引き寄せ、膝の上に籠を置いた。
星が出ていた。アカデミアの空は都市の光があるが、それでも春の星座はうっすらと見える。
「あなたが持っているものが、私の心術の足りないところを補うものかどうか、まだわかりません」
静かな声で言った。咲羅は止まり木の上で、目を半分閉じていた。
「でも、一緒にいてほしい。蒼くんのことも、美緒のことも、もっとちゃんと守れるようになりたい。心術を——きちんとした体系にしたい。」
呟くように、しかし確かに。
幼い頃に誓った言葉の輪郭が、胸の中でまた鮮明になった。
「だから、力を貸してください。咲羅」
咲羅が目を開けた。
その赤い目が、星の光を受けて、ひっそりと輝いた。
春を告げる、最初の光のように。
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