咲羅
主人公の式神
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
朝比奈蒼が百々の机の端に企画書を置いたのは、放課後の教室が半分空きかけた頃だった。
A4の和紙に丁寧に書かれた文字。最上段には『心術研究応用実証プログラム―学内限定試行案』とある。
「お前が欲しいって言ってたやつ、形にしてみた」
蒼はごく自然に言って、自分の席に戻った。自慢げでも恩着せがましくもない。ただ普通の話し方で。
百々は紙面に目を落とした。
心術の効果測定装置が計測した数値、先の教師会議で提出した証拠資料への参照、暫定認定を受けた魔法体系の保護規定第十二条。必要な情報が無駄なく整理されている。最後のページに一行だけ手書きで添えてあった。
「場所は図書棟の第三閲覧室が空いてる。週二回なら押さえられる」
百々は一度、書類から目を上げた。蒼はもう自分の作業机に向かっており、左手首のブレスレットをいじっている。
窓から午後の光が斜めに差し込んで、青みがかった髪に線を引いている。
百々はもう一度、企画書を読んだ。
図書棟への申請に必要な書類は十二種類あった。
そのうち七種類は美緒が「こっちのほうが書き方正しいよ」と朱で修正を入れた。
「研究利用申請のここ、目的欄が短すぎる。審査係の人は細かいの好きだから、もう三行は足したほうがいい」
寮の勉強机に書類を広げ、美緒は口に鉛筆を咥えながら言う。そばかすのある顔に珍しく真剣な眉が乗っている。
「……なんでそんなに詳しいの」
「お姉ちゃんが演習場使う時に全部調べたから。無駄に覚えてるんだよね」と美緒はさらりと言った。
姉の話が出ると、声のトーンだけがほんの少し違う。百々は気づいていたが、今日は何も言わなかった。
「ありがとう、美緒」
「感謝は後でいい。今は書いて」
肩に止まった咲羅が、くちばしで百々の耳を小突いた。
「いたい」
「全集中して書けということです」
「……喋った」
美緒が飛び上がる勢いで顔を上げた。丸い目がさらに丸くなっている。「え、今しゃべった、この子!」
咲羅は美緒の動揺などまるで気に留めず、さらりと百々の頭の上に移動した。
「申請書の書き方は大事ですよ、百々殿。魔術体系の正式化を望むなら、その入り口の書類から丁寧に扱う。そういうものです」
「……あなた最近よく喋るようになりましたね」
「波長が合ってきたということです」
美緒は鉛筆を置いて、しばらく咲羅を見上げていた。それからこくりとうなずく。
「なんかすごい信頼できる感じの喋り方する」
「でもよく意地悪します」
「そうです」と咲羅は言った。
書類の提出は翌朝一番に行い、審査は一週間後とされた。
返事を待つ間、百々は放課後に図書棟の廊下を通ることが増えた。第三閲覧室の扉ガラスから中を確認する。広くはないが日当たりがいい。文机が四つ、隅に小さな棚。静かだった。
「具体的にどうやるつもり?」
蒼に聞かれたのは演習区画からの帰り道だった。もう日が傾いていて、石畳に長い影が二本並んでいる。
「相手が来たら、まず話を聞きます。それから心術で状態を確認して、必要なら軽い施術を」
「『軽い施術』って具体的には」
百々はすこし考えた。
「感情のノイズが大きくなりすぎているとき、魔力回路が詰まっているように見えます。そこに心術で緩やかに触れると、少し流れがよくなる。痛みを消すんじゃなくて……流れやすくする、っていう感じです」
蒼は黙って聞いていた。
「それ、やられたことある」と彼は言った。
百々はちらりと横を向く。
「演習区画で暴走しかけた時。あの感覚、今でも覚えてる。ぐるぐる詰まってたものが、すうっと動いた」
「……気づいてたんですか」
「後から思い出した」
石畳の継ぎ目を蒼の足が踏んで、靴音が一瞬変わる。
「怖くなかったか、って聞きたいだろうけど」と彼は続ける。「なかった。あの時は。それよりなんか、ちゃんと届いてるんだなって」
百々は前を向いたまま、袖口を軽く握った。
「ちゃんと届いてたなら、よかったです」
審査結果は七日後の午後、担当教師から書面で届いた。
封を開けた百々の手が、一瞬止まる。
「なんて?」と美緒が飛びついてくる。
「……条件付き承認、です」
「やったじゃん!」
「条件が、三つあります」
百々は続けて読んだ。一、施術は本人の同意を書面で確認した後に限る。二、毎回の記録を教師一名に提出する。三、一回あたりの利用者は二名まで。
「三つだけか、思ったよりゆるいな」
蒼が後ろから覗き込んで言った。
「厳しいと思います」と百々は言った。「でも当然の条件です」
「なんで」
百々は書面を丁寧に折り直した。
「心術は人の感情や魔力に直接触れる術式です。同意なしにやったら、それはもう治療じゃなくて侵害になる。制度がうるさいのは正しい」
蒼は少し黙ってから、「お前はそういうとこ、ちゃんとしてるな」と言った。
美緒が両手でノートを胸に抱えてにやにやしている。百々は見えないふりをした。
開院初日は木曜日の放課後だった。
といっても、予約が入ったのは一人だけだ。
三年の女子生徒で、術式訓練の過負荷が続いて睡眠が乱れているという。百々が心術の暫定認定を受けたという話が、どこかで伝わったらしかった。
百々は第三閲覧室の机の上に、書いてきた同意書と簡単な状態確認のための呪符を並べた。咲羅が棚の上に止まっている。
「緊張してますか」
「……少し」
「それは正直でよろしい」
「煽らないでください」
「そういうつもりはないですよ」と咲羅は言ったが、目は少し細かった。
生徒が来た時、百々はまず同意書を渡して読んでもらった。相手が一通り確認して署名した後、百々は向かいの椅子に座って静かに言った。
「最近、どんな時がいちばんつらいですか」
施術が終わった頃には外がすっかり暗くなっていた。
廊下に出た百々の前に、なぜか蒼が立っていた。
「……何してるんですか」
「審査の記録係」と蒼は言った。手には薄い帳面を持っている。「教師に提出する記録、お前一人じゃ書きにくいだろ。俺が見届け人になっとく」
「誰にも頼んでません」
「頼まれてなくてもやる」
百々は一瞬、言葉を探した。
「……ありがとうございます」
「どうだった、一回目」
百々は廊下の壁に背をつけた。肩から力が少し抜ける。
「……難しかったです。ノイズの位置は見えても、どこまで触れていいか判断するのが」
「うまくいったのか」
「たぶん。帰る時、さっきより顔の色がよかった」
「それでいいんじゃないか」
蒼は帳面を脇に挟んで、廊下の窓に目をやった。図書棟の外には中庭があり、常夜灯が点いている。
「継続するための条件が三つあるって聞いた」
「全部守ります」
「わかってる。だから俺は記録係を続ける」
百々は蒼の横顔を見た。切れ長の目が常夜灯の光を細く映している。
「なんで、そこまで」
「お前の魔法が本物だって、俺は知ってるから」 それだけだった。言い切ったあと、蒼は左手首のブレスレットをいじり始めた。事実として言ったつもりだが、その言葉の重さに自分で気づいて、少し気恥ずかしくなったのかもしれない。
百々は壁から背を離して、「では、これからもよろしくお願いします」と言った。
蒼は「ああ」と短く返した。
寮に戻ると美緒が廊下まで出て待っていた。
「どうだった! うまくいった!?」
「一人だけですけど、一応」
「一人でも大事じゃん!」
美緒は百々の腕を引っ張って部屋に戻り、机の上に積んであった自分のお菓子の袋を差し出した。
「これ今日のお祝い。「蒼くん来てたじゃん! ていうか何あの『記録係です』って。あれ絶対作り置きの理由で、本当は百々のこと心配してたんだよ。恋のニおいがする!」
「なんで知ってるんですか」
「絶対来ると思ったから。あの人、そういうとこあるよね」
美緒は部屋のクッションを抱えてころりと床に転がった。
「ねえ百々、心術医院って名前つけたの?」
「……いえ、まだ」
「つけたほうがいいよ。名前あると本物っぽいし」
百々はしばらく考えた。
咲羅が窓辺から首を傾ける。
「心結い(こころゆい)はいかがですか」
美緒が顔を上げる。「それいい! なんか百々っぽい」
「……心を結う、ですか」
「縫い合わせるのではなく、ほどけないよう結ぶ。そういう術式でしょう、百々殿の心術は」
百々は手のひらを見た。呪符用の墨痕が、袖口から指の付け根にかけて薄く滲んでいる。
幼い頃、家族の苦痛を和らげた夜のことを思う。あの時も自分は、ただほどけてしまいそうな何かを、必死に結んでいた。
「心結い」と百々は口に出してみた。 幼い頃の記憶と、蒼の支援と、美緒の優しさと、咲羅の言葉が静かに重なる。結ぶ——そう、あの時も自分はただ必死に結んでいただけだった。 なんとなく、しっくりきた。
「決まりだね」と美緒はにこにこしている。
外の夜風が窓ガラスを揺らした。咲羅の赤い目が、灯りの中でゆっくり細くなる。百々は、この小さな部屋の中に今夜だけの静かな確かさがあると思った。
週二回の放課後、一回二名まで、記録は毎回提出。
それが今の百々にできる全部だ。でも全部を積み上げていけば、いつか正式な体系になる。
そのためにある小さな一歩目を、今日踏み出した。
窓の外では、アカデミアの夜灯が一列に点っている。石畳の上を渡っていく風が、春の名残をかすかに含んでいた。
次話予告 心結いの噂が口コミで広がり始め、来訪者が増えてゆく中で、百々は一人の生徒の深い傷に直面する。癒やせるかどうかわからないまま向き合う百々に、蒼が静かに問う。「なんでそこまでやるんだ」——百々は初めて、自分の原点を言葉にしようとした。
コメント機能は現在開発中です。