咲羅
主人公の式神
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
「心結い」の看板を立ててから、最初の三日間は誰も来なかった。
施術の記録帳を開いたまま、百々は使われることのない小部屋で呼符の文字を写し続けた。窓から差し込む午後の光が畳の上に伸びて、また縮んで消えていく。隣の廊下を誰かが通るたびに足音に耳を澄ませたが、どの足音も部屋の前で止まることはなかった。
咲羅が肩の上で羽を畳んだまま言った。
「来ないな」
「……はい」
「焦ってる?」
百々は筆を止めずに答えた。「焦ってるというより、静かですね」
「静かなのが怖いんだろ」
返す言葉がなかった。
四日目も、五日目も同じだった。承認を得るまであれほど奔走したのに、いざ開いてみると施術室はただの空き部屋になっていた。美緒には「最初はそういうものだよ、絶対広まるって」と断言され、蒼には「告知の呪符をもっと人通りのある回廊に貼り直すか」と実務的な提案をされた。どちらの言葉も温かかったが、夜、寮の部屋で一人になると、百々の胸の奥でじわじわと何かが滲んでいくのを感じた。
この静けさに慣れるな。でも飲み込まれるな。
幼い頃から繰り返してきた自分への言いつけを、小さく唇に乗せた。
転機は、六日目の夕刻に訪れた。
廊下の足音が施術室の前でためらいがちに止まった。百々が立ち上がって襖を開けると、三年生らしき男子生徒が、人に見られることをひどく恐れるように肩を縮めて立っていた。
「あの、先日うちのクラスの桐島さんから聞いて……眠れないのが続いていて」
一時間後、彼が帰っていく背中は来たときより少し軽そうだった。百々は記録帳に術式の経過を書き込みながら、自分の手が震えていないことを確かめた。
それからは緩やかに変わっていった。
先週来た桐島が誰かに話し、その誰かがまた誰かに話した。百々の施術室を訪ねてくる生徒はじわじわと増え、ある週には一日に上限の二名が連続することもあった。眠れない生徒、試験前に魔力制御が乱れる生徒、理由もわからず胸が重いと言う生徒。心術で感知できる感情の波は人それぞれで、同じ「眠れない」でも、奥にある結び目の形はまるで違った。
蒼は約束通り、見届け人として施術のたびに廊下で待った。施術後に記録帳を確認して教師への報告書を一緒にまとめることが、いつの間にか二人の放課後の習慣になっていた。
「今日の二人目、魔力波形が最初と最後でだいぶ変わったな」
蒼が記録帳の数値を覗き込みながら言った。廊下の端に並んで腰を下ろしている。夕暮れが窓から斜めに差し込んで、彼の青みがかった黒髪を鈍く光らせていた。
「気づきました?」
「俺が魔導具で計測してるんだからわかるに決まってる。入室時に比べて出力が三割落ち着いてる。施術の精度、上がってるんじゃないか」
「……上がっているかどうかは、時間を見ないとわかりません。でも、繰り返すたびに何かが掴めてくる感じはします」
「感じ」
「言葉にするのが難しいんですよね、心術は」
蒼は少し笑った。だが、その笑顔の奥底では、百々がなぜそこまで俺の行動に関心を向けるのか、理解しようとしている自分に気づいていた。「お前が一番困ってるだろうな、そのあたり」
百々も口元を緩めた。「困ってます」
正直に言うと、蒼は声を立てて笑った。最初の頃はあんなに完璧だった笑顔が、今は崩れた形のまま向けられてくる。百々の心術には、その変化がやけにはっきりと映った。以前は笑顔の裏に軋んでいたものが、少しずつ和らいでいる。
「朝比奈くんのほうこそ、最近どうですか」
「何が」
「無理してませんか」
蒼は一拍置いてから、「してない」と言った。今度は嘘ではなかった。百々には聞き分けがついた。
「じゃあ、新作はどこまで進んでますか」
「心術の計測装置の改良版。お前の術式をより細かく分解して記録できるようにしたい。今のだと微細な波形が取りこぼされてる」
「それは、私のためですか」
「……半分は、俺が面白いから」
「その半分が好きです」
蒼が少し顔を上げて百々を見た。百々は記録帳に視線を落としたままだったので、彼がどんな表情をしたのかは見えなかった。けれど、心術の感知に何かふわりとしたものが触れてきて、百々はそっとその感触に気づかないふりをした。
それは、その日の夕食後だった。
「腹減ったから食堂行くぞ」と蒼が声をかけてきて、百々は記録帳を閉じて立ち上がった。廊下を二人並んで歩いていると、肩の上に止まっていた咲羅が急に動いた。
「ねえ」
小さな雀の声で、咲羅が言った。百々だけでなく、蒼にも聞こえる声量で。
「伴侶というのはいつ見ても堂々としているものだと思っていたが、最近の百々はなかなかいい顔をしている。余が丁寧に育てた甲斐がある」
百々の足が止まった。
「…………咲羅」
「何?」
「いま、何と言いましたか」
「聞こえただろう」
「聞こえましたが、確認しています」
「だから伴侶と言った。余の伴侶だ。この意味がわからないほど、お前の読解力は低くないだろう」
横を歩いていた蒼の歩調が一拍ずれた。百々は視界の端で彼が自分のほうに顔を向けたのを感じたが、咲羅から目を離す余裕がなかった。
「咲羅、それは」
「本来、式神と術者の関係というのはそういうものだ。魂の共鳴から始まる。お前の波動を感じた時から言っているだろう、久しぶりだと。久しぶりの伴侶に値する人間だと」
「それは——」
「余がお前を選んだのと同じように、お前が余を繋ぎ止めた。それを世間では伴侶と呼ぶ」
百々は口を開いて、閉じた。
式神と術者の結びつきが「伴侶」という言葉で語られることが古い文献にあることは知っていた。魂の波動が一致した相手と式神は主従を超えた関係を結ぶという、それは確かに古典に記された話だった。けれど——
「咲羅。それは比喩的な意味合いで」
「余は比喩を使う趣味はない」
沈黙。
「伴侶ってのは」と蒼が静かな声で言った。低いが、平坦ではなかった。「そういう意味か、咲羅」
「朝比奈の坊やは話が早くて助かる。そういう意味だ」
「……百々は」
百々は蒼に向いた。彼の切れ長の目が、いつもの曖昧な笑顔ではなく、何かを真っすぐに測るような眼差しで百々を見ていた。左手首の魔導具ブレスレットが、指先に少し力が入ったのか、微かな光を放った。
「百々は、それを知ってたのか」
「……知っていたというか、古文献でそういう概念があることは」
「咲羅にそう言われることを」
「それは、知りませんでした」
蒼は三秒ほど百々の顔を見ていた。それから、視線を前に戻した。
「そうか」 それだけ言って、蒼は視線を前に戻した。だがその側面は、いつものような無理のない笑顔ではなく、何かを必死に整理しようとしている表情をしていた。食堂への廊下を歩き続けて、その後は魔導具の計測精度の話をした。いつも通りに見えた。百々の心術には、でも、彼の内側で何かが小さく波立っているのがわかった。意図して隠しているのではなく、隠し方を一時的に失ったような、そういう波立ちだった。
咲羅は百々の肩の上で、ごくのんびりと羽を繕いながら、内心で二人の動揺を味わっていた。余の一言でこうも変わるか、と可笑しげに。
寮に戻ると、美緒が教科書を広げたまま机に突っ伏して寝ていた。百々が戸を閉める音に顔を上げ、「あ、おかえり」と言ってから、百々の顔を見て首を傾げた。
「……何? すごい顔してる」
「すごい顔ですか」
「疲れた? じゃなくて、混乱してる感じ」
百々は部屋の中に入り、着替えの棚の前に立ったまましばらく動かなかった。
「美緒さん、式神の伴侶の概念、詳しいですか」
美緒が教科書を閉じた音がした。
「……? 心術学の話? それとも一般教養の式神術の話?」
「古典の概念で、術者と式神が魂の波動で繋がった場合に用いられる言葉です」
「ああ、あれ! 聞いたことある。確か春天雀の伝承に出てくるやつじゃなかったっけ、特に強い式神は主従を超えて——」美緒がそこで止まった。「……百々、まさか」
「咲羅が今夜、私のことをそう言いました」
数秒の沈黙の後、美緒が立ち上がった。
「それを蒼くんの前で!?」
「……はい」
「蒼くんの顔、どうだった」
「......わかりませんでした。ですが、心術では彼の内側で何かが小さく波立っているのが感じられて。表情には出ていなかったのに」
「普通のわけないじゃん!」美緒が両手で頭を抱えた。「それ絶対動揺してたやつだよ! 普通に見せてたのは動揺してたからだよ! 百々、お前は心術使えるのになんで蒼くんの気持ちがわからないの!」
「それは……心術は人の感情を傷として読み取るもので、恋愛感情がそれに含まれるかどうかは」
「含まれるに決まってるだろ!」
百々は押し黙った。美緒がため息をついて、もう一度腰を下ろした。
「咲羅さ、絶対わかってやってるよ。あの式神、人の気持ち読めるんでしょ」
「……読めます」
「だったら、蒼くんの気持ちも読んだ上で言ったに決まってる」
その可能性は、百々も感じていた。肩の上で澄ました顔で羽を繕っていた咲羅の横顔が頭に浮かぶ。
余は比喩を使う趣味はない。
あの言い切り方は、ただ事実を述べているような声音だった。けれど同時に、何かを動かそうとしているような——
「百々は蒼くんのこと、どう思ってるの」
美緒の声が、珍しく静かだった。
百々は答えを探した。施術室の廊下で並んで数値を見ていた時間のことを、蒼の笑顔が崩れて本物になっていくのを見てきたことを、「俺が面白いから」と言った時の横顔のことを、思った。
「……わからないです。でも、わからないというのは、おそらく嘘で」
「嘘なんだ」
「心術で感知した時に、あの人の波動だけが特別な重さで届いてきます。それが何なのか、まだ言葉にできていない」
美緒は少しの間黙っていた。それから、口元だけで笑った。
「言葉にできなくていいんじゃない、今は。でも咲羅があの発言を蒼くんの前でした以上、蒼くんは何か考えるよ。きっと明日、また何か変わる」
百々は窓の外に目を向けた。アカデミアの夜空には術式灯の光が散らばって、遠くから見れば星と見間違えるほどだった。
咲羅は百々の枕の脇でじっと丸まっていた。
「咲羅」
「何だ」
「あなたは、何を考えているんですか」
式神は目を細めた。
「余が何を考えているかは、お前が一番よくわかるはずだろう。何せ、余の術者なのだから」
答えにならない答えを置いて、咲羅は静かに目を閉じた。
百々は長いこと天井を見ていた。心結いを訪ねてくる生徒たちの顔が浮かんだ。徐々に満ちてきたあの小部屋の空気が浮かんだ。蒼の、報告書を見ながら数値を読み上げる声が浮かんだ。
静けさの中で何かが揺れていた。それが恐ろしいものではないとわかるくらいには、百々は今、自分の心術を信じることができていた。
コメント機能は現在開発中です。