咲羅
主人公の式神
朝比奈 蒼
ヒロイン的ポジション兼主人公の心術の最初の「患者」。物語の感情的中枢。
橘 美緒
コメディリリーフ兼百々の恋愛面における背中を押す存在。物語の潤滑油。
司早 百々
朝の廊下に、蒼の姿がなかった。
百々が教室の扉を開けると、いつも先に来て試作品の調整をしているはずの席は空だった。窓から差し込む朝光が、机の面をただ白く照らしている。
「蒼くん、今日は朝練があるって言ってたよ」背後から美緒の声がした。その言葉の先に、昨晩の『伴侶』という咲羅の言葉があるのかもしれないと、百々は感じた。振り向けば、彼女はノートを脇に抱えて当然のように席につく。「昨日、廊下で会ったとき教えてくれた」
「そうですか」
百々は自分の席に座り、呪符帳を開く。視線は文字の上にあったが、何も読めていなかった。
昨夜の咲羅の声が、まだ耳の裏に残っていた。
「伴侶」という言葉は、古典の一節を読み上げるような口調で言われた。それなのになぜか百々の胸の奥に、墨が紙に滲むようにじわじわと広がり続けた。蒼の表情の変化を、心術を使わずとも百々は見ていた。かすかに固まった肩。いつものように消えた笑顔。
美緒がわざとらしく咳払いをした。
「百々、今日の放課後、心結いは?」
「……はい。四時から」
「蒼くんが見届け人の番だね」
返事をしなかった。美緒はそれ以上追わなかった。ただ、ページをめくる音が教室に穏やかに満ちていく。
放課後の廊下は、日が斜めに差し込んで長い影を作っていた。
百々が施術室「心結い」の前に着くと、廊下の壁にもたれるようにして蒼が立っていた。今日の午後は彼の見届け役の番だった。
「よ」
軽い声だった。しかし百々の感覚は——心術として意識しなくても——すぐに気づいた。いつもよりわずかに魔力の振動が荒い。揺れている。
「おつかれさまです」
「俺は廊下で突っ立ってただけだけど」
「それでも」
蒼は少し黙った後、「まあな」と答えた。
百々は扉を開ける前に一度だけ振り返る。蒼は壁に背をつけたまま、試作品のブレスレットをくるくると指で回していた。その動作に迷いがある。普段は無意識にやる癖のはずなのに、今日は止まる瞬間がある。
何かを考えている。
施術室の中に入り、百々は扉を閉めた。
その日の最後の来訪者が帰ったのは、日が完全に落ちたあとだった。
廊下に出ると、蒼は床に直接座っていた。壁に背をもたせかけ、膝を立て、腕をその上に乗せて目を閉じている。その輪郭が夕闇の中でやけに静かに見えた。
「蒼さん」
目を開けた。「終わった?」
「はい」
百々が片付けの荷物を抱えて扉に鍵をかけていると、蒼が立ち上がる気配がした。立ち上がり際に小さく息をついた、それだけのことを、百々は聞いた。
「疲れていますか」
「俺は何もしてねえよ」
「それは答えになっていません」
蒼は一拍置いてから、「……まあ」と言った。
歩き始める。廊下の先へ。百々は隣について歩く。二人の靴音が石畳のような廊下に響いて、それ以外は静かだった。
「咲羅のこと、気になるか」と蒼が言ったのは、渡り廊下の半ばだった。
百々は少し考えた。「咲羅が何かをしているときは、気になります」
「そういう意味じゃなくて」
わかっていた。だからこそ少し考えた。
「蒼さんは、何が気になっていますか」
蒼が足を止めた。百々も止まる。渡り廊下の格子窓から、薄藍の空と最初の星が見えた。
「あいつ、本当に式神なのか。雀じゃなくて」
「そうです。春天雀と呼ばれているみたいですが、正直私もよくわかっていません」
「伴侶って言葉、知ってるか」
「古典に出てきます。魂の波動で結ばれた術者と式神の関係を指す言葉だと」
「そう。だから俺が気になってるのは」
蒼は格子窓の外を向いた。星がもう一つ増えていた。
「お前が、そういうふうに決められてるみたいで」
言葉が途切れた。百々は蒼の横顔を見た。耳の先がかすかに赤い。夕闇のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。心術の波動は、今この瞬間、荒れていない。むしろ静かに、しかし深く揺れていた。
百々は答えを探した。しかし答えより先に、足音が来た。
その足音は、廊下の角から現れた。
百々も蒼も同時に振り向いた。
夕闇の廊下に立っていたのは、白い衣をまとった青年だった。
背は高く、肩のあたりで白い髪が柔らかく揺れていた。涼し気な切れ長の目が、まるで春の朝霞を映したように淡く透けて見える。袖が広く、その衣の縁に春の野花を思わせる模様が織り込まれていた。立っているだけで、廊下の空気が少しだけ甘くなったような——そんな錯覚を起こさせる存在感だった。
「……は?」と蒼が言った。
その青年は百々を見て、静かに微笑んだ。
「ずいぶん遅くまで働くのだな、伴侶よ」
百々は三秒ほど、その声に聞き覚えを探した。
「……咲羅」
「ご名答」
蒼が百々と青年を交互に見た。「え、これ咲羅?あの雀が?」
「雀というのはいただけないな、朝比奈蒼よ」咲羅は蒼に視線を向けた。「本来の姿はこれだ。もっとも、久しぶりに出してみれば随分と霞んでしまったが」
百々は咲羅の様子を見た。確かに声も立ち姿も美しかったが、心術で感じ取れる波動の輪郭が、ところどころほつれていた。完全ではない。何か重いものが、彼の内側に巻きついている。
「なぜ今日、この姿で」
「少し話しておきたいことがある」
咲羅は格子窓の近くに来て、外を見た。星がさらに増えていた。
「心術の本当の形について」
渡り廊下の壁際に三人が並んで座った。咲羅が座ると、その衣が花弁のように広がった。蒼は少し離れた位置に膝を立てて腰を下ろし、腕を組んで咲羅を観察している。百々は二人の間にいた。
「私は平安の世に、ある心術者に名をつけられた」と咲羅は言った。「春を寿ぐものよ、と。それが私の始まりだ」
百々は黙って聞いた。
「それ以来、心を通わせられるものと契約してきた。私が伴侶と呼ぶのはそういう意味だ——魂の波動が重なるという意味において」咲羅は少しだけ百々を見た。「恋慕とは違う。少なくとも最初は」
蒼が「最初は?」と聞いた。
「長い時間を共にすれば、境が消えることもある。それは私の経験則だ」
蒼がわずかに口を引き結んだ。百々はそれを見た。見て、胸の中で何かがひっそりと動いた。
「先の大戦で」と咲羅が続けた。「私は前線にいた」
百々の呼吸が止まった。
「私の主は海軍将校だった。私は士気管理官として前線を渡り歩いた——心術で戦場の魂を整えながら。ところが最後に乗った船が、敵の攻撃を受けた」
咲羅の指先が、袖の端を無意識に押さえた。その仕草を、百々は見逃さなかった。
「船が沈んだとき、私は船員たちの恨みと痛みを全部引き受けた。——愚かなことだ。それが今も、私を縛っている」
廊下が静かだった。
「心術は」と百々は言った。「相手の痛みを感じ取るものです。でもそれを、引き受けてはいけないとも聞きました」
「そうだ」咲羅はうなずいた。「それが心術の本当の形だ。感じ取ることと、引き受けることは違う。私はそれを間違えた」
百々は自分の左手を見た。制服の袖口に、今日の施術でかすかに滲んだ墨痕がある。
「心術者が他者の痛みを引き受けようとするのは、放っておけない性質ゆえだ。しかしそれは術者自身を食い潰す」咲羅は百々を見た。「お前はまだそこまでいっていない。だからこそ今、話しておく」
蒼が口を開いた。「それが言いたかったことか」
「一つはそれだ」
「一つは、ってことは」
咲羅は少し考えるように視線を上げた。「もう一つは——心術が本来どういうものかという話だ。呪符でも霊脈でも結界でもない。式神との契約でもない。それは人の心の波動に触れ、整え、しかし決して変えないという術だ」
百々は咲羅の顔を見た。涼し気な目が、今は少し遠いところを見ていた。
「私が正せるのは、乱れた流れだけだ。心そのものを変えることは、正しい心術者には出来ない。そしてそれをしようとした者が大戦で暴走したのだと、私は思っている」
百々の胸に、幼い頃の夜の記憶が浮かんだ。家族の声。苦しみが和らいでいく瞬間。自分の手が何をしたかは今もよくわからないが、あの時変えようとしたのではなく——ただそこにいようとしていた。
「……私は」と百々は言った。「感じ取るだけで、何も変えていないつもりです。でも本当にそれでいいのか、ずっとわからなくて」
「それでいい」と咲羅は言った。口の端が上がる。「ただそこにいるだけで、人は動く。面白いだろう、百々よ。お前の術が何もしていないのに、人々は勝手に正される」
三人がその場を立ったのは、廊下に夜の巡回の足音が近づいてからだった。
咲羅は歩き始める前に、ふと百々の頭上を見た。
「呪いが取れるまで」と静かに言った。「この姿は長くは保てない。が、必要なときには出てこれる」
「呪いを」と蒼が言った。「取る方法はあるのか」
咲羅は蒼を見た。蒼は目を逸らさなかった。
「ある。しかし私一人ではできない」
「百々の心術があれば?」
「それだけではない。しかし」——咲羅の口の端がわずかに上がった——「お前が作るものが要る、朝比奈蒼よ」
蒼は一瞬黙り、それから「まじか」とつぶやいた。その声には少し、火がついたような音があった。百々にはそれがわかった。
「いずれ話す」と咲羅は言って、袖をひるがえした。
角を曲がりかけた瞬間、白い髪が灯りを反射して一瞬春の光のように輝いた。そして次に百々が目をやった時には、廊下の先は空だった。
二人だけになった渡り廊下で、百々と蒼は少しの間黙っていた。
「……なあ」と蒼が言った。
「はい」
「俺が作るもの、って言われたの、初めてじゃないか。あいつに」
「そうかもしれないですね」
蒼は左手首のブレスレットを見た。試作品の金具が夜の光を鈍く反射している。
「あいつの呪い、魔導具で何かできるとしたら——心術の波動を外から支えるような構造が必要だな」
百々は蒼の横顔を見た。さっきまで揺れていた彼の波動が、今は一点に集まっているのがわかった。
「蒼さん」
「ん」
「さっき、聞けなかったことがあります」
蒼が百々を見た。
「咲羅が言った、伴侶という意味について」百々はまっすぐに言った。「私は、咲羅と魂の波動が重なるかもしれない。でも私が今、一番そばにいたいのは」
言葉が途切れた。
蒼が動かずにいた。
百々は続けた。「隣にいてくれる人のそばです」
長い沈黙だった。
蒼はゆっくりと前を向いた。廊下の先を見て、息をついた。その呼吸は——もう今日の最初ほど乱れていなかった。
「......俺、なんていうか、あいつの側が——」蒼は言葉を探すようにブレスレットを指で回した。「お前の隣にいるのが、俺だ」
「知っています」
「お前が言いたかったのはそういうことか」
「違いますか」
蒼は少し笑った。心術の波動が、静かに整っていく。百々はそれを感じながら、答えの代わりに一歩歩き始めた。
蒼もついてきた。
廊下の先に、夜が広がっていた。
寮の部屋に戻ると、美緒がベッドの上で膝を抱えて待っていた。百々が扉を開けた瞬間に飛び起きた。
「遅い!!心配した!!で、何があったの!!咲羅がなんか変な気配放ってなかった??あと蒼くんは!!」
「咲羅が、今日は人の姿で出てきました」
美緒が固まった。「……人の姿」
「白い髪で、春みたいな格好の」
「……それ、めちゃくちゃ格好いいやつじゃないの」
「そうだと思います」
美緒は枕を抱えて唸った。「で、何を話したの」
百々は荷物を棚に置きながら、咲羅が話したことを少しずつ伝えた。心術の形のこと。痛みを感じ取ることと引き受けることの違い。大戦での話。呪いのこと。
美緒は途中から黙って聞いていた。
「……すごいね」と最後に言った。静かな声だった。「あの雀、そんなもの抱えて百々の肩にとまってたんだ」
百々は窓の外を見た。星が増えていた。
「私も、まだよくわかっていないことが多いです。自分の術が何をしているのか、何をできるのか」
「でも」と美緒が言った。「蒼くんは立ち直ったじゃない。咲羅だって今日ちゃんと話してくれたじゃない。つまりさ、百々は変わろうなんてしてないのに、百々のそばに誰かがいるってだけで、相手が変わるんだよ。それって、百々の術が本当に正しい形だってことじゃないの」
百々は黙った。
美緒は枕をベッドに投げて、毛布を被った。「もう寝る。おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋の灯りが消えた。百々は窓の外の星を見続けた。
心術は、感じ取るだけでいい。変えようとしなくていい。ただそこにいることが、術なのだと——咲羅は言った。
幼い夜、ただそこにいようとした自分は、間違っていなかったのかもしれない。
百々はゆっくりと目を閉じた。白梅の髪飾りが、暗闇の中でかすかに光を拾って揺れていた。
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