北の森へと続く道は、思いのほか険しかった。
「はぁ…はぁ…こんな山道、聞いてねぇよ…」
アッシュこと佐藤剛は、汗だくになりながら山道を登っていた。彼の前を歩くリリア・ブルームフィールドは、まるで散歩でもしているかのように軽やかに進んでいる。彼女の指先からは微かな青い光が漏れ、周囲の空気を感知するように揺らめいていた。
「体力がないのね。冒険者として致命的よ」
リリアの冷ややかな視線に、アッシュは思わず顔をしかめた。
「おい、45年生きてきた体だぞ。それに前世じゃ電車の中でぶつかるのが運動だったんだ。文句あるか?」
「ぶつかるのが運動…?」リリアは眉をひそめた。「あなたの前世って、本当に変わった世界ね」
彼女は手のひらを上に向け、小さな風の渦を作り出した。「少し休憩する?この風の魔法で体温を下げることができるわ」
「いらねぇよ」アッシュは強がりながらも、その風に顔を近づけた。「…まあ、悪くはないな」
アッシュは足を止め、遠い目をした。
20年前、東京
「佐藤!また遅刻か!」
会社の上司に怒鳴られる佐藤剛。25歳、社会人3年目の春だった。
「す、すみません。電車が…」
「言い訳するな!お前のせいで朝のミーティングが遅れたんだぞ!」
頭を下げる佐藤。しかし心の中では違った。
(俺が悪いわけじゃない。電車が遅れたんだ。それに朝のラッシュで身動きとれなかったし…)
その日の帰り、いつもより混雑した電車の中。佐藤は押しつぶされそうになりながら、ふと気づいた。自分の前に立つサラリーマンが、わざと彼を押しのけるように立っている。
(なんだこいつ…スペース取りやがって…)
佐藤は思わず肩をぶつけた。
「あ、すみません」
形だけの謝罪。しかし、その瞬間、佐藤は不思議な感覚を覚えた。肩をぶつけた時の、あの一瞬の優越感。自分のスペースを奪い返した感覚。
翌日からも、佐藤は通勤電車で「偶然を装って」人にぶつかり始めた。最初は控えめに、やがて大胆に。
「すみません、失礼しました」
口では謝りながら、心の中では笑っていた。
(どうだ、気分いいだろ?俺のスペースに入ってくるからだ。世の中は強い者が勝つんだよ)
それが佐藤の密かな楽しみになっていった。会社での鬱憤、社会での居場所のなさ、全てをぶつかることで発散していた。
「おい、聞いてるのか?」
リリアの声で現実に引き戻される。彼女の手には小さな光の球が浮かび、地図のように森の様子を映し出していた。
「ああ…すまん。ちょっと考え事をしていた」
「もう、注意散漫ね。北の森には危険な魔物がいるのよ。集中しないと命取りになるわ」リリアは光の球を操作し、特定の場所を拡大した。「私の探知魔法によると、この辺りに悪鬼羅刹の気配があるわ」
アッシュは無言で頷いた。前世での記憶が鮮明によみがえってきていた。自分がなぜ「ぶつかりおじさん」になったのか。それは単なる趣味ではなく、社会に対する無言の抵抗だったのかもしれない。いや、それ以上に、自分が正しいという強い信念があった。
「それにしても、あなたのぶつかりスキル…」リリアが歩きながら言った。「昨日のゴブリン退治を見る限り、かなり強力ね。でも、なぜぶつかることがそんなに強力なスキルになるのかしら?」
「さあな。俺にもわからん。ただ、前世では迷惑行為でしかなかったが、ここでは役に立つらしい。俺は正しかったんだよ」
「迷惑行為…」リリアは小さく笑った。「でも、この世界では必要な力かもしれないわ。特に今回の依頼は」
「今回の依頼って、何だ?詳しく聞いてないぞ」
リリアは足を止め、真剣な表情でアッシュを見た。彼女の指先から青い光が放たれ、周囲に魔法の結界を形成した。
「北の森に『悪鬼羅刹』と呼ばれる魔物が現れたの。村人を何人も殺し、森の生態系も破壊している。通常の武器では傷つかないと言われているわ」
「そんな強いのか…」
「ええ。だからこそ、あなたのぶつかりスキルが必要なの。物理法則を無視したようなその力なら、悪鬼羅刹にも効くかもしれない」リリアは結界を強化しながら続けた。「私の魔法だけでは倒せないわ。古代魔法の研究者として、あの魔物の持つ力にも興味があるの」
アッシュは自分の腕を見つめた。この世界に来てから、彼の体は少しずつ変化していた。肩には硬い突起物が生え、皮膚は鎧のように硬くなっていた。まるで、ぶつかるために最適化されていくかのように。
「ところで、リリア。お前はなぜ俺なんかと組んだんだ?他にも強い冒険者はいただろう」
リリアは少し歩みを緩め、遠くを見つめた。彼女の手には古い魔法書の一部が映る幻影が浮かんでいた。
「私には…取り戻さなければならないものがあるの。古代魔法の秘密を解き明かすためには、あなたのような特殊な力が必要だと思ったわ。私の魔法理論では説明できない現象を引き起こすあなたの力は、研究価値が高いのよ」
それ以上は語らなかったが、アッシュはリリアの目に決意の色を見た。
森の奥深く、二人は小さな開けた場所に辿り着いた。周囲の木々は根元から折れ、地面には大きな爪痕が残されていた。
「ここが悪鬼羅刹の縄張りね」リリアは警戒しながら周囲を見回した。彼女の両手には既に複数の魔法陣が展開され、青と紫の光が交錯していた。
「どんな姿をしてるんだ?その悪鬼羅刹ってやつは」
「伝承によれば、人の形をしているけど、皮膚は岩のように硬く、爪は鋼鉄より鋭いと言われているわ。そして何より恐ろしいのは…」
リリアの言葉が途切れた瞬間、地面が揺れ始めた。
「来るわ!」リリアは素早く詠唱を始め、地面に魔法陣を展開した。「防御結界、展開!」
巨大な影が木々の間から現れた。身長3メートルはあろうかという巨体、赤い皮膚に鋭い角、そして全身を覆う岩のような外皮。まさに悪鬼そのものだった。
「グオオオオ!」
悪鬼羅刹の咆哮が森中に響き渡る。
「リリア、下がれ!」
アッシュは前に出て、構えた。悪鬼羅刹はアッシュを見るなり、猛スピードで突進してきた。
「スキル発動!『無敵突進』!」
アッシュも全力で走り出し、悪鬼羅刹に向かって突進した。二つの体がぶつかり合う瞬間、衝撃波が周囲に広がった。
「ぐっ…!」
アッシュは吹き飛ばされたが、すぐに体勢を立て直す。悪鬼羅刹も数メートル後退したが、ダメージは少ないようだった。
「硬い…!前世の満員電車の中のリーマンより硬いぞ…!でも、俺は引かねぇ!」
「アッシュ!気をつけて!悪鬼羅刹は衝撃を吸収する能力があるわ!」リリアは魔法陣を操作しながら叫んだ。「私が魔法で動きを制限するから、その隙に攻撃して!」
彼女は両手を広げ、「氷結の鎖!」と唱えた。地面から青白い鎖が現れ、悪鬼羅刹の足に絡みついた。
「今よ、アッシュ!」
悪鬼羅刹が再び突進してきた。アッシュは避けようとしたが、間に合わず、悪鬼の巨大な腕に叩きつけられた。
「ぐああっ!」
アッシュは地面に叩きつけられ、口から血を吐いた。
「アッシュ!」リリアが駆け寄ろうとするが、悪鬼羅刹が彼女の前に立ちはだかる。
「来るな!」アッシュは叫んだ。「俺が何とかする!お前は魔法に集中しろ!」
リリアは頷き、素早く後方に跳んだ。「炎の嵐!」彼女の詠唱と共に、悪鬼羅刹の周囲に火の渦が巻き起こった。しかし、魔物はその炎をものともせず、リリアに向かって突進した。
「くっ!」リリアは防御魔法を展開したが、悪鬼羅刹の一撃で魔法陣が砕け散った。
「リリア!」
アッシュは必死に立ち上がろうとした。その時、彼の脳裏に過去の記憶が蘇った。
10年前、東京
「佐藤さん、あなたのその行為、ハラスメントですよ」
会社の若い女性社員に指摘される佐藤。35歳になっていた彼は、もはや「ぶつかりおじさん」として社内でも有名になっていた。
「何言ってるんだ?偶然だよ、偶然。わざとじゃない」
「毎日のように『偶然』なんてありえません。他の人も迷惑しているんです」
佐藤は内心焦りながらも、開き直った。
「世の中狭いんだよ。ぶつかるくらい我慢しろよ。俺には俺のやり方があるんだ」
その日の帰り道、佐藤は考えていた。
(俺は悪くない。世の中が悪いんだ。みんな自分のことしか考えてない。だから俺もぶつかるしかないんだ…俺のスペースは俺が守る)
しかし、心の奥底では、自分の行為が間違っていることを理解していた。それでも、彼にはぶつかる以外に自分を表現する方法を知らなかった。
「アッシュ!しっかりして!」
リリアの声が聞こえる。彼女は悪鬼羅刹に向かって次々と魔法を放っていた。「雷鳴の矢!」「氷結の牢獄!」しかし、魔物はそれらの魔法を次々と打ち破り、リリアに迫っていた。
「くっ…古代魔法なら効くかもしれないけど、準備が…」リリアは古い魔法書の一部を取り出し、複雑な詠唱を始めた。
(そうだ…俺はぶつかることしかできない…でも、今はそれが必要なんだ…俺のスペースは俺が守る…いや、今は守るべきものがある)
アッシュはゆっくりと立ち上がった。体中が痛むが、それ以上に強い決意が湧き上がってきた。
「おい、デカブツ!」
悪鬼羅刹がアッシュの方を向いた。
「お前みたいなのは知ってるぜ。衝撃を吸収するタイプだろ?」
アッシュは肩の突起物に手をやった。それは今や、鋭い角のように変化していた。
「でもな、俺のぶつかりは違うんだよ。これは…」
アッシュは全身に力を込めた。すると、彼の体から青白い光が放たれ始めた。
「リリア!今だ!魔法を俺にぶつけろ!」
リリアは一瞬驚いたが、すぐに理解した。「わかったわ!古代魔法・力の増幅!」彼女の詠唱と共に、アッシュの周囲に金色の魔法陣が現れ、彼の体を包み込んだ。
「『究極ぶつかり』!」
アッシュの体が弾丸のように飛び出した。悪鬼羅刹も両腕を広げ、その衝撃を受け止めようとする。
二つの体がぶつかり合った瞬間、森全体が揺れるほどの衝撃波が発生した。しかし、アッシュは止まらない。彼の体は悪鬼羅刹の胸を貫通し、向こう側まで突き抜けていた。
「ぐ…あ…」
悪鬼羅刹が崩れ落ちる。アッシュも膝をつき、荒い息を吐いた。
「アッシュ!大丈夫?」
リリアが駆け寄ってくる。彼女の手には既に治癒魔法の光が宿っていた。
「ああ…なんとかな。お前の魔法、すげぇな…」
「あなたこそよ。信じられないわ…あなたは悪鬼羅刹の防御を完全に突破した…」リリアは倒れた魔物に近づき、魔法の光で調査を始めた。「これは貴重な研究材料になるわ」
アッシュは倒れた悪鬼羅刹を見つめた。
「奴は衝撃を吸収する…だが、俺のぶつかりは単なる衝撃じゃない。前世で45年かけて磨いた、魂のぶつかりだ」
リリアは呆然としながらも、アッシュに治癒魔法を使い始めた。彼女の指から放たれる緑の光が、アッシュの傷を次々と癒していく。
「あなたのぶつかりスキル…本当に特殊ね。でも、なぜそんなに強力なの?」
アッシュは少し考え、答えた。
「前世では、ぶつかることは迷惑行為だった。でも、俺にとっては唯一の自己表現だったんだ。言葉じゃなく、体でぶつかることでしか、自分を表現できなかった…」
リリアは黙って聞いていた。彼女の手には小さな結晶が浮かび、アッシュの言葉を記録しているようだった。
「でも今は違う。このスキルで人を守れる。迷惑じゃなく、必要とされる…それが、俺のぶつかりの道だ」
「興味深いわ」リリアは悪鬼羅刹の体から何かのエネルギーを抽出し、小さな瓶に封じ込めた。「あなたのスキルと私の古代魔法の研究…何か共通点があるかもしれないわ」
夕日が森を赤く染める中、アッシュは立ち上がった。彼の肩の突起物は、より鋭く、より大きくなっていた。
「さあ、帰ろうか。ギルドに報告しないとな」
リリアは微笑み、頷いた。
「ええ。それに、あなたのぶつかりスキルについて、もっと調べる必要があるわ。あれは単なるスキルじゃない…もっと深い意味があるはずよ。私の古代魔法の理論と組み合わせれば、新たな発見があるかもしれないわ」
二人は森を後にした。アッシュの心には、新たな決意が芽生えていた。前世では迷惑だったぶつかりが、この世界では人々を救う力になる。それは彼にとって、救いでもあった。
「リリア、お前の『取り戻したいもの』…それは何なんだ?」
リリアは少し黙った後、静かに答えた。
「私の家族は代々、古代魔法の研究者だったの。でも10年前、ある事件で両親が失踪し、家の魔法書も盗まれてしまった…」彼女は手の中の結晶を見つめた。「私は両親の研究を継ぎ、失われた古代魔法の秘密を解き明かしたいの。そして、もしかしたら…両親の行方も」
アッシュは頷いた。彼の冒険はまだ始まったばかり。そして彼のぶつかりスキルの真の力も、まだ眠っているのかもしれない。
「俺は…この世界で、ぶつかることの本当の意味を見つけるんだ。そして、お前の目的も手伝ってやる。俺のやり方でな」
リリアは微笑んだ。「ありがとう。あなたのぶつかりと私の魔法、意外と相性がいいかもしれないわね」
夕暮れの道を歩きながら、アッシュはそう誓った。彼の肩の突起物が、夕日に輝いていた。
【つづく】
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