桜井 ひまり
もぐもぐ
ミステリアスな存在・コミカルリリーフ
「ひまりちゃん、すごいニュース見つけたよ!」
放課後の教室で、けんたが興奮した様子でスマートフォンの画面をひまりに向けた。画面には「歯医者が隠す真実!虫歯は特殊な薬で一瞬で治る!」という刺激的なタイトルが踊っている。
「えー、何それ?」ひまりは首をかしげながら画面を覗き込んだ。
「見てよ、この動画!海外の研究者が開発した特殊な薬で、虫歯が一瞬で治るんだって。でも歯医者業界が儲からなくなるから、この薬の存在を隠してるんだって!」
けんたの声は次第に熱を帯びていく。昨日ひまりの不思議な力で虫歯の痛みから解放されたばかりの彼にとって、この情報は特別な意味を持っていた。
「本当かなあ...」ひまりは疑問符を浮かべながら呟いた。
その時、ひまりの肩に小さな重みを感じた。振り返ると、歯の妖精もぐもぐが心配そうな表情で立っている。
「ひまり、その話は危険だもぐ。人間は時々、簡単な答えを求めすぎるもぐ」
もぐもぐの声は、いつもの陽気さとは違って真剣だった。しかし、けんたにはもぐもぐの姿は見えない。
「ねえ、ひまりちゃんの力も、もしかしてこの薬と関係あるのかな?」けんたは目を輝かせながら続けた。「君の家族、誰か秘密の薬を持ってるとか...」
「そんなことないよ」ひまりは慌てて首を振った。「うちのお父さんは普通のサラリーマンだし、お母さんも看護師さんだけど歯医者じゃないもん」
翌日の朝、教室は異様な熱気に包まれていた。けんたが昨夜見つけた動画の話が、クラス中に広まっていたのだ。
「本当だよ!僕も調べたんだ」田中が興奮して手を振りながら言った。「アメリカの大学で開発された『デンタルキュア X-1』っていう薬があるんだって。一滴垂らすだけで虫歯が完全に治るんだよ!」
「でも、なんで日本にないの?」クラスメイトの一人が疑問を投げかけた。
「それが陰謀なんだよ!」けんたが声を上げた。「歯医者さんたちが、自分たちの仕事がなくなるのを恐れて、政府と一緒にその薬を隠してるんだ!」
教室がざわめいた。子どもたちの目には、まるで大きな秘密を発見したような興奮が宿っている。
ひまりは不安になって、もぐもぐの方を見た。小さな妖精は、ひまりの机の上で小さく首を振っている。
「もぐもぐ、本当にそんな薬があるの?」ひまりは心の中で尋ねた。
「ないもぐ。そんな都合の良い薬は存在しないもぐ。虫歯は複雑な病気だから、簡単に治る方法なんてないもぐよ」
しかし、クラスメイトたちの興奮は収まらない。
「じゃあ、ひまりちゃんの力も、きっとその薬と関係があるんだよ!」みどりが突然口を開いた。「ひまりちゃんの家族が秘密でその薬を持ってて、ひまりちゃんに使ってるから虫歯にならないんじゃない?」
「そうだ!それで昨日、けんたの虫歯も治ったんだ!」
「ひまりちゃん、本当のことを教えてよ!」
クラスメイトたちがひまりを囲み始めた。彼らの目には、期待と疑いが混じっている。
「違うよ、そんなんじゃないよ...」ひまりは困惑しながら後ずさりした。
「みなさん、席に着いてください」
鈴木先生が教室に入ってきた時、異様な雰囲気を察知した。
「先生!」けんたが勢いよく手を上げた。「虫歯を一瞬で治す薬があるって本当ですか?歯医者さんたちが隠してるって聞いたんですけど!」
鈴木先生は眉をひそめた。「どこでそんな話を聞いたのですか?」
「インターネットです!動画もあるんです!」
教室中の子どもたちが一斉に頷いた。鈴木先生は深いため息をついた。
「皆さん、落ち着いて聞いてください。そのような薬は存在しません。虫歯は細菌による感染症で、適切な治療と予防が必要です。一瞬で治る魔法のような薬はありません」
「でも、動画で証拠を見せてました!」田中が反論した。
「インターネット上の情報は、必ずしも正しいとは限りません。特に、『秘密の薬』や『隠された真実』といった話は、多くの場合、根拠のない陰謀論です」
しかし、子どもたちの表情は納得していない。むしろ、「大人も隠蔽に加担している」という疑いの目を向けている。
「先生も歯医者さんの味方なんですか?」みどりが挑戦的に尋ねた。
鈴木先生は困った表情を浮かべた。科学的事実を説明しても、一度陰謀論を信じてしまった子どもたちを説得するのは容易ではない。
昼休み、ひまりは一人で屋上にいた。クラスメイトたちからの視線と質問攻めに疲れ果てていた。
「もぐもぐ、どうしよう...みんな、私が嘘をついてるって思ってる」
もぐもぐがひまりの肩に飛び乗った。
「ひまり、人間は時々、複雑な現実よりも簡単な答えを求めるもぐ。『秘密の薬がある』という話の方が、『毎日の歯磨きと健康的な生活が大切』という当たり前の話より魅力的に聞こえるもぐよ」
「でも、なんで?」
「恐怖だもぐ。虫歯になるのが怖い、歯医者に行くのが怖い、痛い治療を受けるのが怖い。だから、『簡単に治る薬がある』という話に飛びつくもぐ。でも、そんな都合の良いものは存在しないもぐ」
ひまりは膝を抱えて座り込んだ。
「私の力も、結局は嘘だったのかな...」
「違うもぐ!ひまりの力は本物だもぐ。でも、それは魔法の薬じゃない。ひまりが持っているのは、人を笑顔にして、健康への意識を高める力だもぐ。それは薬よりもずっと価値があるもぐよ」
午後の授業中、けんたは隠れてスマートフォンで更なる「証拠」を探していた。
「やっぱりそうだ...」彼は小さく呟いた。
新しく見つけた動画では、「歯科医師会の陰謀」について詳しく説明されていた。世界中の歯医者が結託して、虫歯を治す革命的な薬の存在を隠蔽しているという内容だった。
「ひまりちゃんの家族も、きっとその組織の一員なんだ」けんたは確信を深めていく。「だから、ひまりちゃんだけが特別な薬を使えるんだ」
放課後、けんたは数人のクラスメイトと一緒にひまりを囲んだ。
「ひまりちゃん、もう隠さなくていいよ。僕たちは真実を知ってるから」
「本当に何も知らないの...」ひまりは涙目になりながら答えた。
「嘘だ!昨日、僕の虫歯を治してくれたじゃないか!普通の人にはできないことだよ!」
「そうよ!きっと秘密の薬を持ってるのよ!」みどりも加勢した。「私たちにも分けてよ!」
ひまりは後ずさりしながら首を振った。しかし、クラスメイトたちの目には、もはや友情ではなく、疑いと欲望が宿っていた。
その夜、ひまりは泣きながら家に帰った。両親に事情を説明すると、父親は深刻な表情を浮かべた。
「ひまり、それは陰謀論というものだ。科学的根拠のない、間違った情報が広まってしまったんだね」
「でも、みんな本気で信じてるの...」
母親がひまりを抱きしめた。「人は不安な時、簡単な答えを求めがちなの。でも、現実はそんなに単純じゃない。虫歯予防も治療も、地道な努力が必要なのよ」
その時、もぐもぐがひまりの前に現れた。
「ひまり、明日学校で真実を伝えるもぐ。陰謀論の恐ろしさと、本当の健康の大切さを教えるもぐよ」
「でも、どうやって?みんな、もう私の話を信じてくれないよ」
「大丈夫だもぐ。ひまりには、人の心を動かす本当の力があるもぐ。それは薬じゃない、ひまりの優しさと誠実さだもぐ」
翌朝、ひまりは決意を固めて教室に向かった。クラスメイトたちは相変わらず、彼女を疑いの目で見ている。
「みんな、聞いて」ひまりは教室の前に立った。「昨日のこと、本当のことを話すね」
教室が静まり返った。
「私には、秘密の薬なんてない。お父さんもお母さんも、普通の人だよ。でも...」ひまりは深呼吸した。「私には確かに、特別な力があると思う」
クラスメイトたちの目が輝いた。
「でも、それは薬の力じゃない。みんなを笑顔にしたい、健康になってほしいって気持ちの力なの」
「嘘だ!」けんたが立ち上がった。「僕の虫歯は本当に治ったんだ!」
「うん、治ったと思う。でも、それは薬のせいじゃない」ひまりは優しく微笑んだ。「けんたくん、あの後、歯磨きをちゃんとするようになったでしょ?甘いものも控えるようになったでしょ?」
けんたは言葉に詰まった。確かに、ひまりに「治してもらった」後、彼は今まで以上に歯のケアに気を使うようになっていた。
「みんな、考えてみて。もし本当に一瞬で虫歯を治す薬があったら、世界中の人が使ってるはずだよ。でも、そんな薬はない。あるのは、毎日の歯磨きと、健康的な生活だけ」
その時、教室にもぐもぐの声が響いた。もちろん、聞こえるのはひまりだけだが。
「ひまり、みんなに伝えるもぐ。陰謀論の本当の恐ろしさを」
ひまりは頷いて、クラスメイトたちを見回した。
「みんな、『秘密の薬がある』って話を信じたのは、虫歯が怖かったからでしょ?痛い治療を受けたくなかったからでしょ?」
子どもたちは静かに頷いた。
「でも、そういう恐怖につけ込んで、嘘の情報を広める人たちがいるの。『簡単な解決法がある』『でも隠されている』って言って、人を騙すの。それが陰謀論の怖いところなの」
みどりが小さな声で尋ねた。「じゃあ、本当はどうすればいいの?」
「地道に、毎日歯磨きをして、甘いものを食べすぎないで、定期的に歯医者さんに診てもらうの。つまらないかもしれないけど、それが一番確実な方法なの」
教室に重い沈黙が流れた。
鈴木先生が教室に入ってきた時、子どもたちの表情は昨日とは全く違っていた。
「先生...」けんたが恥ずかしそうに手を上げた。「僕たち、間違ってました。陰謀論を信じちゃって...」
鈴木先生は優しく微笑んだ。「大丈夫です。人間は誰でも、不安な時に簡単な答えを求めてしまうものです。大切なのは、間違いに気づいた時に、素直に認めることです」
「でも、なんで僕たちはあんなに簡単に騙されちゃったんでしょう?」田中が疑問を口にした。
「それが人間の弱さでもあり、愚かさでもあります」鈴木先生は黒板に「批判的思考」と書いた。「情報を鵜呑みにせず、『本当かな?』『証拠はあるかな?』と疑問を持つことが大切です」
ひまりは、もぐもぐが満足そうに頷いているのを見た。
「人間は実に愚かだもぐ」もぐもぐが呟いた。「でも、同時に学ぶ力も持っているもぐ。それが希望だもぐね」
放課後、けんたとみどりがひまりのところにやってきた。
「ひまりちゃん、ごめん」けんたが頭を下げた。「僕、君を疑って...」
「私も。秘密の薬があるって信じて、ひまりちゃんを問い詰めちゃって」みどりも謝った。
ひまりは二人を見て、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。みんな、怖かったんだもん。私も、もし立場が逆だったら、同じように考えちゃったかも」
「でも、ひまりちゃんの本当の力って何だったの?」みどりが尋ねた。
ひまりは少し考えてから答えた。
「多分...みんなを大切に思う気持ちかな。健康でいてほしいって願う気持ち。それが、みんなの行動を変えて、結果的に虫歯を予防することにつながったんだと思う」
もぐもぐが小さく拍手した。
「正解だもぐ!ひまりの力は、人の心を動かす力だもぐ。それは薬よりもずっと強力で、ずっと価値があるもぐよ」
一週間後、クラスでは「正しい情報の見分け方」についての特別授業が行われた。鈴木先生の提案で、子どもたちは自分たちが陰謀論に騙された経験を振り返り、批判的思考の大切さを学んだ。
ひまりは相変わらず虫歯ゼロの記録を続けていたが、今度はクラスメイトたちも正しい知識を身につけて、自分たちで歯の健康を守るようになっていた。
「結局、魔法の薬なんてなかったね」けんたが苦笑いしながら言った。
「でも、ひまりちゃんという魔法はあったよ」みどりが微笑んだ。「私たちに本当に大切なことを教えてくれる魔法」
ひまりは頬を赤らめながら、もぐもぐの方を見た。小さな妖精は、満足そうに頷いている。
「人間は愚かだけど、学ぶ力があるもぐ。そして、ひまりのような子がいる限り、希望はあるもぐね」
夕日が教室を染める中、三人は明日の歯磨きの約束をして、それぞれの家路についた。陰謀論の恐怖を乗り越えた彼らには、より強い絆と、正しい知識を見分ける力が身についていた。
そして、ひまりの「むしばゼロ!ハッピーガール」としての新たな冒険が、また始まろうとしていた。
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