佐倉 美咲
主人公の秘密を知る唯一のクラスメイト
神山 良
ノーマル至上主義政治家
霧島 零
反政府能力者組織「解放」のリーダー
幻神 翼
特殊能力管理局の若手エージェント
氷室 二郷
十月の朝、氷室二郷は目覚まし時計の音で目を覚ました。午前5時30分。受験まで残り3ヶ月という現実が、まだ眠い頭に重くのしかかる。
「今日も一日、普通に過ごそう」
鏡に向かってそう呟くのが、彼の日課だった。黒髪を整え、制服のシャツにアイロンをかける。母親はすでに仕事に出ており、静寂に包まれた家の中で、二郷は一人朝の準備を進めた。
学校への道のりで、スマートフォンのニュースアプリが目に入る。
『神山良氏、能力者問題について緊急記者会見を予定』
二郷の手が一瞬震えた。神山良——最近メディアで頻繁に取り上げられる政治家で、能力者に対する厳しい規制を主張している人物だ。記事には昨日の発言が引用されている。
『「能力者は社会の安定を脅かす存在です。彼らには特別な監視システムと、より厳格な行動制限が必要です。一般市民の安全を守るため、能力者登録制度の義務化と、違反者への厳罰を提案します」神山氏はギラギラと光る鋭い目つきで記者団を見据え、拳を握りしめながら語った。』
二郷は記事を読み進めるうちに、胸が苦しくなってきた。神山の提案する「能力者登録制度」——それは能力者を社会から隔離することに等しい。
「関係ない。僕には関係ない」
二郷は画面を閉じ、歩調を速めた。しかし、神山の鋭い眼光が頭から離れなかった。
教室に入ると、クラスメイトの佐倉美咲が既に席に着いて参考書を開いていた。彼女もまた、医学部を目指す受験生の一人だ。
「おはよう、氷室くん」
「おはよう、佐倉さん」
二郷は自分の席に着き、数学の問題集を開いた。しかし、美咲の視線を感じる。振り返ると、彼女が心配そうな表情で自分を見つめていた。
「氷室くん、今朝のニュース見た?神山っていう政治家の」
二郷の手が一瞬止まった。
「ああ、少し」
「あの人の言ってること、ちょっと極端じゃない?能力者だって人間なのに、まるで危険な動物みたいに扱って」
美咲の言葉に、二郷は驚いた。彼女がそんな風に考えているとは思わなかった。
「でも、実際に能力者による事件も起きてるし...」
「それは一部の人でしょう?普通の人だって犯罪を犯すことはあるのに、能力者だけを特別視するのはおかしいと思う」
美咲の瞳には、強い意志が宿っていた。二郷は彼女の意外な一面に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「佐倉さんって、そういうこと考えるんだね」
「当たり前よ。医者になりたいって思ってるのは、困ってる人を助けたいからなの。能力者だろうと普通の人だろうと、関係ないわ」
昼休み、二郷は一人で弁当を食べていた。そんな彼の元に、美咲が近づいてくる。
「氷室くん、最近疲れてない?顔色が悪いよ」
「大丈夫です。ただの寝不足で」
実際のところ、二郷は毎晩能力のコントロール練習を続けていた。水の入ったペットボトルを凍らせ、また溶かす。その繰り返しで、能力が暴走しないよう細心の注意を払っている。
「無理しちゃダメよ。体調を崩したら元も子もないから」
美咲は二郷の隣に座ると、自分の弁当を開いた。
「ねえ、氷室くん。あなたって、何か隠してない?」
二郷の箸が止まった。
「え?」
「なんとなくだけど、いつも何かを我慢してるような気がするの。もっと自然体でいてもいいのに」
美咲の直感的な言葉に、二郷は動揺した。彼女は何かを感じ取っているのだろうか。
「そんなことないよ」
「そう?でも、もし何か困ったことがあったら、遠慮しないで相談してね。私たち、同じ目標に向かって頑張ってる仲間なんだから」
美咲の優しい言葉に、二郷は小さく微笑んだ。彼女の存在が、今の自分にとってどれほど大切かを実感していた。
放課後、二郷はコンビニでのアルバイトに向かった。レジ打ちや商品の陳列——単調な作業が、彼にとっては心を落ち着かせる時間でもあった。
「お疲れさま」
声をかけてきたのは、近くのカフェで働く幻神翼だった。二郷より3歳年上で、すでに大学に通っている先輩だ。整った顔立ちと落ち着いた雰囲気で、バイト仲間の間でも人気が高い。
「翼さん、お疲れさまです」
「受験勉強、順調?」
「まあ、なんとか」
翼は二郷の答えを聞きながら、その表情を注意深く観察していた。表面上は親切な先輩を演じているが、実際には特殊能力管理局のエージェントとして二郷を監視している。しかし、監視を続ける中で、翼は二郷の真面目な性格と努力する姿勢に、次第に複雑な感情を抱くようになっていた。
「もし勉強で分からないことがあったら、いつでも聞いて。僕も受験は経験してるから」
「ありがとうございます」
二郷は素直に感謝の気持ちを表した。翼の存在は、彼にとって頼りになる先輩でもあった。
アルバイトを終えた二郷は、いつものように近くのカフェで勉強することにした。静かな環境で集中できるこの場所は、彼のお気に入りだった。
数学の問題に取り組んでいると、隣のテーブルから声が聞こえてきた。
「あー、また間違えた。この漫画の設定、矛盾してるなあ」
振り返ると、長い黒髪の女性が漫画雑誌を読みながら、困ったような表情を浮かべていた。年齢は20代前半くらいだろうか。黒と赤を基調とした服装で、足元は裸足にスリッパという、少し変わった格好をしている。
「すみません、うるさくて」
女性は二郷に気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、大丈夫です」
「受験生?大変そうね」
「はい。まあ、なんとか頑張ってます」
女性は興味深そうに二郷を見つめた。
「私、霧島零。まあ、今はフリーターってことになってるかな。あなたは?」
「氷室二郷です」
「二郷くん、か。いい名前ね」
零は微笑みながら、自分の席を二郷の隣に移した。
「受験って、すごくプレッシャーでしょう?みんなと同じレールに乗らなきゃいけないって思い込んでない?」
二郷は手を止めて零を見た。彼女の言葉には、何か特別な響きがあった。
「でも、大学に行かないと、将来が...」
「将来なんて、誰にも分からないわよ。私だって、高校卒業してからずっとフリーターだけど、それなりに楽しくやってる」
零の言葉は、二郷の心に不思議な安らぎをもたらした。常に「普通」であることを意識し、レールから外れることを恐れていた彼にとって、零の自由な生き方は新鮮に映った。
「でも、周りの目とか...」
「周りの目って、結局は幻なのよ。あなたを見ているようで、実は自分のことしか見てない。本当にあなたを見てくれる人なんて、この世に何人いるかしら?大切なのは心構え。自分が何をしたいか、どう生きたいかを決めるのは、あなた自身でしょう?」
零の言葉に、二郷は深く頷いた。彼女の話を聞いていると、今まで抱えていた重圧が少し軽くなるような気がした。
「少し普通から外れていても、生活はうまくいくものよ。要は考え方次第」
二郷は零の言葉を反芻した。普通から外れる——それは彼が最も恐れていることだった。しかし、零の前向きな姿勢を見ていると、そんな生き方もあるのかもしれないと思えてきた。
時計を見ると、もう夜の9時を過ぎていた。二郷は慌てて参考書を片付け始めた。
「もう帰らないと」
「そうね。でも、今度また話しましょう。あ、そうそう」
零は突然立ち上がると、二郷の前に立った。
「今度の日曜日、遊園地に行かない?たまには勉強から離れて、リフレッシュするのも大切よ」
二郷は驚いた。遊園地なんて、中学生以来行ったことがない。
「でも、受験が...」
「一日くらい休んでも大丈夫。むしろ、息抜きしないと効率が悪くなるわよ」
零の提案に、二郷は迷った。確かに最近は勉強ばかりで、息が詰まりそうになることもあった。
「考えてみます」
「じゃあ、返事は明日でいいわ。ここに来るでしょう?」
零は微笑みながら、カフェを後にした。零の言葉を聞いていると、いつも胸を締め付けていた鎖が、一つずつ外れていくような感覚がした。呼吸が楽になる。こんな感覚、いつ以来だろう。
家に帰る道すがら、零さんの笑顔が頭から離れなかった。明日もカフェに行けば会えるだろうか。また話ができるだろうか。受験勉強よりも、そんなことばかり考えている自分がいた。
「少し普通から外れていても...」
その言葉が、頭の中で繰り返し響いた。
部屋に戻った二郷は、いつものように能力のコントロール練習を始めた。ペットボトルの水が氷に変わり、また水に戻る。その繰り返しの中で、彼は零の言葉を思い出していた。
もしも、自分が能力者であることを隠さずに生きられたら——そんな想像が、初めて彼の心に浮かんだ。
翌朝、二郷は再びニュースを見た。神山良の記者会見が大きく取り上げられている。
『「能力者による犯罪率は一般市民の3倍に上ります」神山氏は資料を掲げながら、記者団に向かって声を張り上げた。「彼らの存在そのものが社会不安の原因です。私が提案する『能力者隔離法案』により、一般市民の安全を確保しなければなりません」』
画面の中の神山は、ギラギラした目で能力者への敵意を露わにしていた。その表情は、まるで獲物を狙う肉食動物のようだった。二郷は画面を消し、深いため息をついた。
学校に向かう途中、昨日のことを思い出す。零の優しい笑顔、自由な生き方への憧れ、そして遊園地への誘い。
「普通から外れても、うまくいく...」
二郷の心の中で、小さな変化が始まっていた。それは、今まで固く閉ざしていた扉に、わずかな隙間が生まれた瞬間だった。
教室に入ると、美咲が心配そうに彼を見つめていた。
「氷室くん、昨日は遅かったの?」
「ちょっとカフェで勉強してました」
「無理しちゃダメよ。体調管理も受験の一部なんだから」
美咲は二郷の表情を注意深く観察していた。
「ねえ、氷室くん。昨日から何か様子が違うような気がするの。何かいいことでもあった?」
二郷は驚いた。美咲の観察眼の鋭さに、改めて感心する。
「そんなに分かりやすいかな」
「分かるわよ。私たち、もう半年以上同じクラスなんだから」
美咲の言葉に、二郷は複雑な気持ちになった。彼女の優しさは本物だが、それは「普通の氷室二郷」に向けられたものだ。もし自分の本当の姿を知ったら、彼女はどう思うだろうか。
授業中、二郷の頭の中では零の言葉が繰り返し響いていた。そして、遊園地への誘いについても考え続けていた。
放課後、いつものようにアルバイトに向かう二郷を、翼が待っていた。
「二郷、最近様子が変わったね」
翼の鋭い観察眼に、二郷は内心驚いた。
「そうですか?」
「何か悩みでもあるの?受験のことなら、いつでも相談に乗るよ」
翼の言葉は親切だったが、二郷には監視されているような感覚があった。それは気のせいではなかった——翼は確かに彼を監視していたのだから。
「大丈夫です。ただ、少し疲れているだけで」
「そうか。でも、無理は禁物だよ。君のような真面目な学生には、ぜひ志望校に合格してもらいたいからね」
翼の言葉には、複雑な感情が込められていた。監視対象としての二郷と、一人の受験生としての二郷。その両方に対する、相反する気持ちが混在していた。
夜、いつものカフェ。
「店員さーん!」
零が手を上げて店員を呼んでいた。
「プレミアム抹茶ラテと、季節のフルーツパフェ、それからチョコレートケーキも一つお願いします」
「え、零さん...」
プレミアム抹茶ラテって2200円もするやつじゃん...フルーツパフェも1800円、ケーキも100円...合計5000円?
二郷は慌てて財布に手を伸ばした。「僕が払います!そんな高いもの...」
なんか裏でもあるのか..
「受験生の差し入れよ。大人に甘えなさい」零はにやりと笑った。
二郷の心配そうな表情を見て、零は少し胸を張った。
「フリーターを甘く見ちゃダメよ。結構稼いでるんだから」
へえ...そんなに稼げるんだ。
運ばれてきたプレミアム抹茶ラテは、きめ細かい泡とゴールドの粉がかかった豪華な見た目だった。
「いただきます」
こんな高級なやつ、生まれて初めて飲むかも...
一口飲むと、濃厚な抹茶の苦味と甘さが絶妙に混ざり合った。
「美味しい...本当にありがとうございます」
「でしょ?頑張ってる受験生には、美味しいものを」零は満足そうに微笑んだ。「そうそう、遊園地の件、考えてくれた?」
こんなに僕のことを思ってくれる人、初めてかもしれない。
二郷はゆっくりと頷いた。
「行きます」
「日曜日の午前10時、駅の改札で待ち合わせましょう」
「分かりました」
二郷は初めて、受験勉強以外のことに心を向けていた。それは小さな変化だったが、彼の人生にとって大きな意味を持つ一歩でもあった。
カフェを出る時、零は振り返って言った。
「二郷くん、あなたはもっと自分らしく生きていいのよ。誰かの期待に応えるためだけに生きる必要はないの」
その言葉は、二郷の心の奥深くに響いた。家に帰る道すがら、彼は自分の人生について、これまでにないほど深く考えていた。
普通であること。それが本当に自分の望みなのか。能力者であることを隠し続けることが、本当に正しい選択なのか。
部屋で能力の練習をしながら、二郷は零との約束を思い出していた。遊園地——そこで彼女は何を話すのだろうか。そして、自分はどんな答えを見つけるのだろうか。
受験まで残り3ヶ月。二郷の日常に、小さな変化の兆しが現れ始めていた。それは、彼がこれまで築き上げてきた「普通」という殻に、最初のひびが入った瞬間でもあった。
窓の外では、秋の夜風が静かに吹いている。二郷は参考書を閉じ、ベッドに横になった。明日からまた、いつもの日常が始まる。しかし、その日常の中に、新しい可能性の種が蒔かれていることを、彼はまだ知らなかった。
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