氷室 二郷
霧島 零
反政府能力者組織「解放」のリーダー
幻神 翼
特殊能力管理局の若手エージェント
夕暮れの街角で、霧島零は古い新聞記事をスマートフォンで読み返していた。五年前の見出しが画面に浮かび上がる。
『謎の時間停止現象、住宅街の一角で発生』 『専門家も困惑、原因不明の異常事態』 『政府、詳細な調査を約束』
零の金色の瞳が記事の文字を追う。当時、町の一角で約三時間にわたって時間が完全に停止した。鳥は空中で静止し、落下する雨粒は宙に浮いたまま動かなくなった。現象が解除された後、現場には何の痕跡も残されていなかった。
「原子を止める能力、か」
零は呟きながら、裸足のスリッパで地面を軽く蹴った。黒いネイルが施された指先で画面をスクロールする。政府は「気象異常」として処理したが、零には確信があった。これは間違いなく能力者の仕業だ。そして、その能力者こそが——
「氷室二郷」
名前を口にすると、零の唇に薄い笑みが浮かんだ。
一方、特殊能力管理局の地下施設では、幻神翼が同じ資料に目を通していた。
「五年前の時間停止事件、やはり氷室二郷の能力と一致しますね」
翼の上司である中年の男性が資料を机に置く。
「ああ。当時は中学生だった彼が、能力の暴走を起こした可能性が高い。問題は、この情報を『解放』も掴んでいることだ」
翼の赤い瞳が鋭く光る。
「霧島零の動きが活発になっています。氷室への接触頻度も増している」
「監視を続けろ。だが、まだ直接的な介入は控えるんだ。氷室二郷は犯罪を犯していない。我々はあくまで観察者に徹する」
翼は無言で頷いたが、内心では複雑な感情が渦巻いていた。
翌日の放課後、二郷はいつものようにコンビニでアルバイトをしていた。レジでの作業に集中していると、店の入り口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、零が店内に入ってきた。いつもの黒と赤を基調とした服装で、裸足にスリッパという独特のスタイルは変わらない。
「あら、二郷くん。今日もお疲れさま」
零は軽やかに手を振りながら、雑誌コーナーへ向かう。二郷は小さく会釈を返した。
「零さん、今日は何か買い物ですか?」
「うーん、そうね。あ、そうそう」
零は振り返ると、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。
「今度の休日、時間ある?面白い場所を知ってるの。一緒に行かない?」
二郷は一瞬戸惑った。零との関係は読書仲間程度だと思っていたが、最近彼女からの誘いが増えている。
「面白い場所、ですか?」
「そう。この町の歴史を感じられる、特別な場所よ」
零の金色の瞳が意味深に光る。二郷は何か引っかかるものを感じたが、断る理由も見つからなかった。
「分かりました。時間があれば」
「やった!じゃあ、詳細は後で連絡するわね」
零は満足そうに微笑むと、雑誌を一冊手に取ってレジに向かった。
その夜、二郷がアルバイトを終えて店を出ると、近くのカフェから翼が現れた。
「お疲れさま、氷室くん」
「翼さん、お疲れさまです」
二人は並んで歩き始める。夜の街は静かで、街灯が二人の影を長く伸ばしていた。
「最近、あの女性とよく話しているようだね」
翼の言葉に、二郷は少し驚く。
「零さんのことですか?読書の話をするくらいですが」
「そうか」
翼は表情を変えずに答えたが、内心では警戒を強めていた。霧島零の二郷への接近は明らかに意図的だ。
「翼さんは、彼女のことを知っているんですか?」
二郷の質問に、翼は一瞬考える素振りを見せた。
「いや、特に。ただ、君が誰かと親しくなるのは良いことだと思う。受験勉強ばかりでは息が詰まるだろう」
「そうですね」
二郷は素直に頷いたが、翼の表情に何か隠されたものを感じ取った。
週末の午後、二郷は零と待ち合わせ場所で会った。零は相変わらずの格好で、今日は特に機嫌が良さそうだった。
「二郷くん、来てくれてありがとう!」
「こちらこそ。それで、どこに行くんですか?」
零は振り返ると、意味深な笑みを浮かべた。
「町の北側にある住宅街よ。五年前に面白いことが起きた場所なの」
二郷の表情が一瞬強張る。五年前——それは彼の能力が初めて大規模に暴走した時期だった。
「五年前、ですか?」
「そう。時間が止まったって話、知ってる?」
零の言葉に、二郷の心臓が激しく鼓動する。彼女は知っているのか?自分の能力のことを?
「少し、聞いたことがあります」
「面白いでしょう?能力者の仕業だって噂もあるのよ」
零は歩きながら、さりげなく二郷の反応を観察していた。彼の表情の変化を見逃さない。
二人が住宅街に到着すると、零は特定の角地で立ち止まった。
「ここよ。五年前、この一帯で時間が完全に停止したの」
二郷は周囲を見回す。確かにここは、あの日彼の能力が暴走した場所だった。友人たちとの些細な喧嘩がきっかけで、感情が爆発し、気がつくと周囲の時間が止まっていた。
「すごい能力よね」零が続ける。「原子の動きを止めるなんて、神様みたいじゃない?」
「原子を、止める?」
二郷は驚きを隠せなかった。零の知識は一般人のそれを明らかに超えている。
「あら、詳しくないの?時間を止めるっていうのは、実際には原子や分子の運動を停止させることなのよ。物理学的に考えれば、とても理にかなってる」
零の説明に、二郷は戦慄を覚えた。彼女は確実に自分の能力について知っている。
「零さんは、どうしてそんなに詳しいんですか?」
「私?私は能力者に興味があるの」
零は振り返ると、今度は真剣な表情を見せた。
「二郷くん、あなたはどう思う?能力者は隠れて生きるべきだと思う?」
突然の質問に、二郷は言葉に詰まる。
「それは、その人次第じゃないでしょうか」
「でも、隠れることで本当の自分を殺してしまうとしたら?」
零の金色の瞳が二郷を見つめる。その視線には、深い理解と共感が込められていた。
「能力者だって、堂々と生きる権利があるはずよ。むしろ、その能力を活かして社会を良くすることだってできる」
二郷は零の言葉に心を揺さぶられた。確かに、彼女の言う通りかもしれない。なぜ自分は隠れて生きなければならないのか?
「でも、社会は能力者を受け入れてくれるでしょうか?」
「それは、私たちが変えていくのよ」
零の声に力がこもる。
「二郷くん、あなたのような人こそ、その先頭に立つべきだと思うの」
その時、背後から声がかかった。
「あら、こんなところで偶然ですね」
二人が振り返ると、翼が現れた。彼は普段の黒いジャケット姿で、表情は穏やかだったが、その赤い瞳には鋭い光が宿っていた。
「翼さん!」
二郷は驚きの声を上げる。
「散歩の途中で、君たちを見かけたんだ」
翼の視線が零に向けられる。零も翼を見つめ返し、二人の間に緊張が走った。
「こちらは?」翼が尋ねる。
「あ、えっと、零さんです。読書仲間で」
二郷が慌てて紹介すると、零は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「霧島零です。二郷くんとは最近お友達になったの」
「幻神翼です」
翼は軽く会釈したが、その表情には警戒心が滲んでいた。
「それにしても、珍しい場所ですね」翼が周囲を見回す。「ここは五年前の時間停止事件の現場でしたっけ?」
零の表情が一瞬強張る。
「あら、詳しいのね」
「大学で物理学を専攻していますから。あの現象には興味があるんです」
翼の言葉に嘘はなかったが、真の目的は隠されていた。
「物理学!素敵ね」零が手を叩く。「じゃあ、あの現象についてどう思う?」
「理論的には不可能ですが」翼は慎重に言葉を選ぶ。「もし実際に起きたとすれば、相当な力を持つ存在が関与していたでしょうね」
「存在?」
「ええ。人間を超えた、何か特別な存在が」
翼の言葉に、零の瞳が危険に光る。二郷は二人の会話についていけずにいたが、何か重要なやり取りが行われていることは理解していた。
「特別な存在、か」零が呟く。「でも、それが人間だったとしたら?」
「人間が?」翼は眉を上げる。「それは興味深い仮説ですね。でも、そんな力を持つ人間がいるとすれば、きっと大変な苦労をしているでしょう」
「苦労?」
「ええ。そんな力を持っていたら、きっと周囲から理解されずに孤独を感じているはずです。可哀想に」
翼の言葉には、微妙な皮肉が込められていた。零はその意図を察し、唇の端を上げる。
「でも、その人が自分の力を受け入れて、堂々と生きることができたら素敵じゃない?」
「それは理想論ですね」翼は冷静に答える。「現実は、そう甘くありません。力を持つ者には、それに見合った責任が伴います」
「責任?誰が決めるの、その責任を?」
零の声に挑戦的な響きが混じる。
「社会です」翼は即座に答える。「私たちは社会の一員として生きている以上、その秩序を守る義務があります」
「秩序ね」零は小さく笑う。「でも、その秩序が間違っていたら?」
「間違いかどうかを判断するのは、個人ではありません」
二人の会話は次第に激しさを増していく。二郷は困惑しながら二人を見つめていたが、この状況を何とかしなければと思った。
「あの、そろそろ時間が」
二郷の声で、二人は我に返る。零と翼は同時に表情を和らげ、先ほどまでの緊張感を隠した。
「あら、もうこんな時間!」零が時計を見る。「楽しい時間をありがとう、二郷くん」
「こちらこそ」
「翼さんも、お会いできて良かったです」零は翼に向かって微笑む。「今度、ゆっくりお話ししましょう」
「ええ、機会があれば」
翼も表面的には友好的に応じたが、その瞳の奥には警戒心が残っていた。
零が去った後、翼と二郷は並んで歩いた。
「面白い人だね」翼が口を開く。
「そうですね。とても頭の良い人だと思います」
「ああ、確かに」翼は頷く。「でも、氷室くん」
「はい?」
「時には、頭の良い人ほど危険な場合もある。気をつけた方がいい」
翼の言葉に、二郷は不安を覚えた。零に対する翼の反応は明らかに普通ではなかった。
「翼さんは、零さんを知っているんですか?」
「いや」翼は首を振る。「ただ、直感だよ。君のような真面目な人間は、時として利用されやすい」
二郷は翼の言葉を心に留めた。確かに、零の言動には何か隠された意図があるように感じられた。
その夜、零は自分のアジトで電話をかけていた。
「ええ、間違いないわ。氷室二郷が五年前の時間停止事件の犯人よ」
電話の向こうから男性の声が聞こえる。
「それで、勧誘の進捗は?」
「順調よ。でも、一つ問題があるの」
零は窓の外を見つめながら続ける。
「特殊能力管理局のエージェントが彼を監視してる。幻神翼って男よ」
「幻神翼?」
「ええ。今日、少し接触したけど、なかなか手強そうね」
零の唇に危険な笑みが浮かぶ。
「でも、それも面白いじゃない。ゲームが始まったのよ」
一方、翼も管理局に報告を入れていた。
「霧島零と直接接触しました。彼女は確実に氷室二郷を狙っています」
「分かった。引き続き監視を続けろ。だが、まだ動くな」
「了解しました」
翼は電話を切ると、窓の外の夜空を見上げた。
「霧島零、か」
彼の脳裏に、零の金色の瞳が浮かんだ。あの女性は確実に危険だ。そして、氷室二郷はその危険に気づいていない。
翼は拳を握りしめた。養父を殺した能力者への復讐心と、二郷を守りたいという気持ちが複雑に絡み合っていた。
翌日の学校で、二郷は昨日の出来事を思い返していた。零の言葉、翼の警告、そして二人の間に流れた緊張感。
「二郷くん、大丈夫?」
隣の席の佐倉美咲が心配そうに声をかける。
「あ、美咲さん。大丈夫です」
「なんだか、考え事してるみたいだったから」
美咲の優しい声に、二郷は少し心が軽くなった。彼女は自分の能力を知っても受け入れてくれた、貴重な存在だった。
「美咲さん、もし誰かから『隠れずに堂々と生きろ』って言われたら、どう思いますか?」
「急にどうしたの?」美咲は首をかしげる。「でも、それは状況によるんじゃない?堂々と生きることで、大切な人を傷つけてしまうこともあるし」
「大切な人を、傷つける?」
「うん。例えば、二郷くんの場合」美咲は声を小さくする。「能力のことを公にしたら、お母さんも巻き込まれちゃうかもしれないでしょ?」
二郷はハッとした。確かに、自分が能力者だと知られれば、母親にも影響が及ぶ可能性がある。
「そうですね」
「でも」美咲は続ける。「いつか、堂々と生きられる日が来るといいね」
美咲の言葉に、二郷は複雑な気持ちになった。零の主張と美咲の考え、どちらも一理ある。しかし、現実はそう簡単ではない。
放課後、二郷がコンビニに向かう途中で、零からメッセージが届いた。
『今度、私の仲間たちを紹介したいの。きっと二郷くんと気が合うと思う』
二郷は立ち止まった。零の「仲間」とは何者なのか?そして、なぜ自分を紹介したがるのか?
翼の警告が頭をよぎる。しかし、零の言葉にも魅力を感じている自分がいた。
二郷は空を見上げた。夕日が雲の間から差し込み、街を橙色に染めている。
「普通の生活」と「堂々とした生活」。二つの選択肢の間で、二郷の心は揺れ続けていた。
そして、彼はまだ知らなかった。自分を巡って、二つの組織が静かな戦いを始めていることを。
夜が深まる中、町のどこかで霧島零が微笑み、幻神翼が警戒の目を光らせていた。
氷室二郷の運命を賭けた、見えない戦いが始まろうとしていた。
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